父親が団塊の世代だと言うと、いつも少し意外そうな顔をされます。
「奥山くんは、ご両親にとって随分遅くに生まれた子供なんだね」
父親が36歳のときに僕が生まれました。テレビの制作会社で技術職についていた父は、若い頃恋愛をする暇などなく働き、ある程度歳をとり仕事も落ち着いてから母と結婚し子供をもうけたのだそうです。
テレビ業界で働いているというわりに、超がつくほど生真面目で頑固で暴力的な父と、美容師で普段いい加減過ぎるほどにいい加減な母には、一つだけ共通点がありました。
二人とも、仕事が大好き。自分の仕事に誇りを持っていました。
だから僕は幼い頃から、「人生はお金だけじゃない。生きがいになるような仕事を見つけて、一生懸命、人様のお役に立つように頑張りなさい」と、そんなことを言われて育ちました。たいして裕福ではないけど、そこそこしつけの厳しい家庭。当たり前のように僕は、自分も両親のような人生を生きるのだろうと思っていたのですが……。
28歳。お父さん、お母さん、僕は2人に全く似ていないですね。何故か息子は今日も無職です。生きててごめんなさい……。
父親と会話が成立しない
つい先日から年金生活がスタートした、そんな両親の住む実家に寄生してる僕です。全然裕福じゃない家庭です。
当然、普段会話する相手の1位は母親、2位は父親。そういう生活を送っています。父は定年もとっくに過ぎて、嘱託として働いていたのですが、先日契約も満了。それでも今後もアルバイトとしてしばらく、週3日ほど働くそうです。
しかし、これまでフルタイムで働いてた父、今後はどんどんと普段接する時間が増えていくことになります。そう考えると、少し気が重いなと思わなくもないのです。というのは僕、この父が苦手なんです。
何故苦手なのか、今までもその要因を考えてみたことはありました。例えば父は無口で、気むずかしいタイプです。おちゃらけてヘラヘラしている僕とは正反対、水と油。
父「ネットでニュースを読むのもいいが、新聞を読むべきだな。うんたらかんたら」
とジェネレーションギャップを激しく感じさせるような発言の多い父。でも、どうやらそれだけではないんじゃないかな、というのが最近気づいたことです。結局のところ、何を話していいのか、共通の話題というものがないのです。
話してわからない奴は殴って言うことを聞かせる、がモットーの父に幼い頃はよく殴られて育ちました。そんな父がいつしか会話が通じない宇宙人に見えてきて、あまり口をきかないようになった。まぁ、よくある話です。多分でも、僕と父の間にある一番の溝は、進学問題でした。
父は京都にある、とあるエスカレーター私立校出身者であることを誇りとしている風変わりな男でした。思春期に大学受験に追われず自由で豊かな青春時代を過ごした記憶を大切にしていて、息子もぜひ母校に通わせようと思った。それで、幼稚園の頃から中学受験に向けて塾通い。創立者の墓参りをし、伝記を読ませ、同窓会に連れて行き、校歌を暗唱させる。狂気です。受験を成功させることは僕の幼少期の至上命題でした。塾の先生から「受験料はこちらが持つから、どうか他の難関校を受験して欲しい」と懇願されても、「うちはA中学以外受験しないことに決めてますから」と突っぱねる。そんな父の期待に僕は応えたかった。受験当日は40度の熱が続いていて、虚弱体質だった僕は医師から強く止められ入院を勧告されましたが、泣きながらテストを受けました。合格発表までの間、「ダメだったかも」とこぼす僕を、ゴミでも見るような目で見ていた父の顔は、未だに忘れられません。まぁ、運良くまぐれで合格したのですが。
僕はA中学に入るために生まれてきたんだ、何度も自分に言い聞かせながら12歳まで生きてきました。そのために犠牲にしたことも多かった。だから僕は、A中学入学後の人生にかなり期待していました。
これからは受験勉強に必死になることもない、プレッシャーもない、本当に自分がしたいことを探せばいい。ここから僕の本当の人生が始まるんだ。
ところが、そう人生はうまくいかないもの。まず授業のレベルのあまりの低さに辟易し、要領とコミュ力が物言う校風に馴染めず、ついで親友だと思っていた網走くんたち不良グループ(第二回に書いたヒューマニズム溢れる笑顔の彼です)や教師らからハードにいじめられだしたあたりで、学校に行くのが嫌になってきました。というか、さすがに殴る蹴るのレベルがハイクオリティ過ぎて、そのうちマジで殺されると思った。
一方父はというと、長年勤めた会社から東京転勤の辞令が下りました。
父「お前がA中学に通えなくなると困るな。どうする? お前が決めろ」
僕「僕、A中学に行きたい」
なんであのとき、僕はあんなことを言ったんだろう? 思い返せばあれが人生最大の失敗でした。父は転勤を断って会社をやめて、50過ぎてから某テレビ局の子会社に転職しました。それでいよいよ学校はやめられなくなった。
父「なんで学校に行かないんだ!」
でも憂鬱で、朝、起きられない。学校に行くと思うと吐き気がして、体が動かなくなりました。父の怒りはすさまじく、僕は毎日のようにボコボコに殴られました。それでも僕は学校に行かないから、どんどん仲は険悪になっていきます。学校にも家にも居場所がないから、毎日サボって、一人で繁華街をブラブラしていました。
なんだかんだで、塾で受験勉強してたときが一番楽しかったな。もう、生きていても何にも良いことがないや。僕は、人生失敗したな、どうしてこんなことになったんだろう、と思いました。死にたい。殺される前に、自殺しよう。武士みたいなことを考えながら、ふらりと立ち寄った書店で運命が変わりました。本を読んだのです。
がつん!
ぶっ飛ばされたような衝撃でした。生きる意味について、人生について。こんなにシリアスに悩み、嘆き、苦しみ、書かれた文章があるなんて。そのときまで僕は、どちらかというと趣味でたまに数学の本を読むくらいの理系少年、小説や哲学書なんてマトモに読んだことがなかったのです。でも凄いのはこの本だけかもしれない。そう思い、別の本を手に取ると、また、がつん! それからというもの、僕は貪るように本を読みました。授業中も、食事中も、いじめられていても、電車の中も歩きながらも、心を閉ざして本だけに集中しました。殴られるのも食事するのも本を読む時間を確保するための労働だと思った。いじめられてる自分、ご苦労様。君のおかげで本が読める、ありがとう。
クリエイティブな仕事につきたい
思春期に突然何も喋らなくなり、本ばかり読むようになった息子。父や母からしたら、さぞかし不気味な存在だったと思います。僕の変化に、二人は戸惑っているように見えました。でもそんなこと、どうでもよかった。
千冊ちかく本を読むうちに、ふっと、自分も書くということに携わりたいという気持ちが芽生えてきました。一度捨てたような命なんだから。恩返しがしたかった。それはとても素朴な憧れでした。
作家と編集者。
どっちでもいい、なんでもいいから、書くということに関わらせてくれ。それ以外の他のことは何もしたくない。興味ないんだ。
それから僕は、こそこそと隠れて文章を書くようになりました。誰に見せるアテもなく。書いているときだけ幸せで、セックスより気持ちいいと思った。でもこんなことが金になるとは思えない。だから出版社の編集者の求人情報をチェックするのが、それからの僕の日課になりました。
大学2年の頃から、両親と一緒にいるのが苦痛で、一人暮らしを始めました。いざ就職という段になって、大学のキャリアセンターに所蔵されていた就職実績のデータを隅から隅まで閲覧したとき、僕は怖じ気づきました。これ、ほとんど無理ってことじゃないか?
今から思えば、中小を受けるとか、いくらでもやりようはあった。でもそのとき僕は、ビビってしまった。否定されるのが怖いと思った。他のどんな業種の会社で、どれだけ面接で酷いこと言われても心は痛まなかったけど、出版社だけは怖かった。教養のないバカだと看破されるのが恐ろしかった。
僕は逃げた。
普通の会社に就職し、上司とキャバクラに行った帰り、まだ大学生だった友人が自殺する前に電話してきた。たしか、読書会を開こうと思う、という相談だった。僕は、ウザいな、と思いながら、せせら笑うように彼に言いました。
僕「社会に出たら小林秀雄なんて無意味だ。お前も就職したらわかるよ」
リストカットしてるような気分になった。心からずっと血が流れてるみたいな気分だった。ああ、人生失敗したな、どこで間違えたんだろう、そう思いました。
本当は小さな幸せより、大きな絶望が欲しい。書くことでしか癒せないような不幸が欲しいのに。どうしてこんな、ぬるい人生なんだ。嫌で嫌でしょうがなかった。親にも相談せずに会社をやめて、貯金と失業保険で1年くらいブラブラしていた。誰にも会う気になれなかった。貯金が尽きて情けないことに実家に帰り、しばらくぶりに親と暮らし始めて、気づきました。もう、決定的に、共通の話題というものが一つもないんだな、と。
そこで今回の相談です。
今回の相談「ゆとり世代の僕が団塊の世代の父と仲良くするにはどうすればいいでしょうか?」
顔を合わせれば気まずい沈黙ばかりが続く。何を話していいのかわからない。父は何故か僕のことを、「お笑い芸人を目指してる」と勘違いしています。普段僕が母親相手に下らない冗談しか言わないからかもしれません。そのくらいのディスコミュニケーションが僕たち親子の間にあります。
理系学部出身の父は、幼い僕に数学を教えるのが好きでした。そして、定期テストの98点の答案を見て、「何故100点をとれなかった」と真剣に説教してくる人間でした。当然のように理系学部に進学し、その手の職業につくと思われていました。でもいつしか、数学の授業中も無視して小説を読むようになり、少しずつ成績は下降していった。僕はなんだか父を裏切っているような気持ちになりましたが、もう数学に興味が持てなくなった。
大学では文学部に進み、『狂人日記』だの『人間失格』だの『地獄変』だの『死靈』だの『虚無への供物』だのと、何やら得体の知れない表題の本ばかり読むようになった息子のことが、父にはあまり理解出来ないのだと思います。
そんな父も、今年で65歳。いつ死んでもおかしくないよな、とも思います。
そして僕は心のどこかで、学校を巡る様々な出来事がひっかかっていて、父を一方的に恨んでいるのだと思います。年金をあてにして、すねをかじっている無職の分際で。何度かこの話をしたことがあったのですが、会話は平行線を辿り、いつしかこうした話題は我が家のタブーということになりました。野球や政治の話はしても、学校の話はしない。
多分父は、こんなはずじゃなかった、子育て失敗したな、と思っているはずです。本当は、マトモに社会人になった僕と、母校の思い出を一緒に朗らかに語り合いたかったんだと思う。それが僕たち親子の共通の話題になるはずだった。でも、頑張ったけど無理でした。
僕と父はこのまま、わかり合えないまま、死別するんだろうか。昔は、もうよく思い出せないないほど過去には、多分尊敬とかしてたと思うのに。
そこで今回の相談です。父と仲良くするにはどうしたらいいでしょうか? 知恵を貸して下さい。お願いします。
奥山村人(おくやま・むらひと)
1987年生まれ。京都在住。よく家の鍵をなくして人のせいにする。Twitter:@dame_murahito BLOG:http://d.hatena.ne.jp/murahito/