先般より「STAP細胞は存在するのか?」、「論文は捏造だったのか?」という疑惑の渦中にいる小保方晴子さんですが「リケジョの新星」としてポジティヴにデビューを飾った当初から「女性だと普通に研究しているだけでマスメディアに騒がれて大変だな」と思っていました。
本来であればこの問題も「正当な科学的な手続きを踏んだか否か」、「科学者としての倫理」を問うべきお話であるはずです。そして、その手続き上の誤りや研究手法に問題があったことは事実でした。これは小保方さんだけの問題ではなく、そういう人物を研究チームのリーダーに登用した理化学研究所という組織や教育の問題もある。しかしながら、まるで彼女だけが(なにがしかの悪意をもって)問題を引き起こしたように扱われている気がします。
これを期に、もっと前向きな議論をするのであれば、適切な教育であったり、適切な評価システムの導入について話をし、再発防止策を講じるべきなのでは。にもかかわらず、小保方さんという個人の意志(=悪意をもってコトに及んだのでは?)を問題にし、まるで容疑者のように扱われている現状には個人的に憐憫の情を禁じえません。
しかも、小保方さんの場合「女子力」という科学とまったく関係のない点まで問われています。先日行われた記者会見でも、あろうことか「上司と不適切な関係にあったのでは」という質問も飛び出し、ゲスな内容に呆れた人もいるでしょう。小保方さんに対して「実力がないのに、女子力でここまでやってきた」という評価や、枕営業的な「男転がし」で現在のポストを得たに違いないというゲスの勘ぐりは、小保方さんという人格に「女性性」が呪いのごとくまとわりつくようです。
小保方さんの「STAP細胞発見」が報じられると同時に、割烹着やおよそ研究室らしくないピンクや黄色い壁紙の研究室など「リケジョ」というワードや「女子力」をイメージさせるアイテムにマスコミは注目しました。実際、彼女が「可愛らしいアイテム」を好んでいたことは事実なのでしょう。しかしながら、そうした特徴を「アピール」として受け取るのは、あくまで受け取り側の問題であることも考えなくてはいけません。本人にその気がなくても、相手がアピールとして受け取ってしまうことがある、と(具体的に申し上げれば、本人は無自覚なのに、「男を誘うような」仕草とか服装をしている、と指摘される経験がある方もいらっしゃるのでは)。
それを踏まえると、小保方さんを取り巻く一連の事象をどのように受け止めたかによって、その受け取り手の人格が透けて見える……と言ったら言い過ぎでしょうか(他人は自分を映す鏡……とはよく言いますが)? たとえばですが、小保方さんに女子力を感じ、そこから「実力がないのに、女子力でここまでやってきたに違いない!」とか「男転がしでポストを得た!」と憤るのは、成功した他人に対してのルサンチマンなのでは、と私は思うわけです。そうした自身に根差した闇を顧みず、「小保方 イズ ビッチ! 捏造学者は糾弾せよ!」と、まるで自分が完全なる正義のヒーローであるかのように物言う人が少なからずいることにはドン引きです。
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