「女性の〈性〉を女性の手に取り戻す」というフレーズをよく聞きます。長い歴史のなかで、女性の性は男性に隷属させられているものでした。いま私のような者が、オナニーだのセックスだの好き勝手に書けるのも、声をあげ、直接的または間接的に戦ってきた先達あってのことだと思うと、自然に頭が下がります。
たとえば私が好きなバイブレーターの世界でも、ほんのしばらく前までは男性目線のグロいものが主流でした。バイブが女性を気持ちよくするためのものではなく、「こんなグロいもの入れてヨガりやがって……グヘヘ」と男性の興奮をあおるための道具でしかなかったのです。そこに、まずは海外から女性目線のラブグッズが輸入する女性が登場し、近年は国内でも女性が自分から手に取りたくなるアイテムが続々と開発されるようになりました。
オトコのためではなく、自分のためーーラブグッズにかぎらず、いろんなシーンで起きているこうした変化が「取り戻す」ということなのでしょう。まだまだ窮屈でモヤモヤすることは多いですが、今後も加速度的に「取り戻」していきたいと期待する一方で、もうひとつの疑問が出てきます。じゃあ、男性は「いままで俺たちのものだった〈女の性〉が奪い返されつつある!」と感じているの……? ということです。
先週もご紹介した『男子の貞操』は副題に「僕らの性は、僕らが語る」と謳われています。最初に興味を覚えたのは、まさにこのフレーズでした。自分のための性を取り戻したいと奮闘する女性と、自分の性を語りたがっている男性……。この時点でなんだか隔たりを感じます。
タブーはお上が決める
読んでいて感じたのは、いまの男性の性は「貧しい」ということです。たとえば、男性は「誰の手」によって射精に導かれているか。自分の、彼女の、風俗嬢の……という物理的な意味ではなく、何を見て興奮して勃起して射精しているのかという意味です。ここではそれを「お上(かみ)の見えざる手」としています。法が猥褻と決めたもの、タブーとしたものに興奮するというのです。女性のアンダーヘアが禁止されていた時代は、ヘアヌードで興奮できたし、19歳以下の女性との淫らな行為は犯罪だからこそ、JKモノで興奮する男性は多いということです。
そして、こうしたタブーを破ることでしか快楽を得られず、「特定の相手との人間関係や思い出を積み重ねる」タイプの快楽からは遠ざかっている、とも指摘されていました。やはり自己中心的で、「貧しい」快楽です。こんな貧しい快楽のために、女性たちが記号化され、消費されつづけるなんて、いい迷惑です。読んでいるうちに、これはやっぱり取り戻さなければいけないのかも!! という気になってきました。
でも、性が貧しくない時代ってあったの? 現代だけがそんなに貧しい時代なの? 本書でも現在と対比しての過去、というか歴史的事象がたびたび引っぱられています。印象的だったのは、童貞についての項目。現代では童貞は「個人の問題」とされています。個人のルックスや性格、勇気や度胸、根性がどのレベルかによって、脱・童貞できるか否かが決まります。
しかし、これはかつて社会の問題だったそうです。明治以前は村のオキテでいつ、どこで、誰と初体験すべきかが決められていたのだとか。子どもを産み育て、村を維持するのに必要なシステムということです。それゆえ、未亡人に〈筆おろし〉してもらう習慣があり、夜這いの文化がありました。未亡人から手ほどきを受ける童貞クンたちは、自分で相手を探し、交渉しなければならない現代の童貞クンたちよりもはるかに楽でしょうし、傷つくことも少なかったと想像がつきます。
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