シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、「人は女に生まれるのではなく、女になるのだ」と、女らしさが社会的に作られた約束事に過ぎないことを主張した。
つまりこれは、生物学的に女として生まれた人間に、「女という規範や美徳」という文化的な女性性を後天的に学習させることで「女」はつくられる――という、永きにわたり混同されてきた(そして今もされている)「セックス」と「ジェンダー」の相違の暴露であった。
「人は女に生まれるのではなく、女になるのだ」
この言葉は、女性だけの問題ではなく、男性もまた、生物学的に男として生まれた人間に、「男という規範や美徳」という文化的な男性性を学習させることで後天的につくられてきたものであることを示している。
私たちに後天的に女性ジェンダー/男性ジェンダーの規範を学ばせること自体が、多くの問題をはらんでいるのだけれど、中でももっとも厄介なのが、女性ジェンダー/男性ジェンダーの規範に基づいて生きることが、「当たり前」で「ありのまま」の私たちの姿であるという酔狂な決めつけだ。しかもこれを、親や教師や社会が率先して行うような事態がままある。
「女らしくない女」「男らしくない男」「どちらからも外れた人」といった「女らしい女」「男らしい男」以外の人間のありようを、「イタい」とか「気持ち悪い」と言って、彼(女)らに劣等のレッテルを貼る人は、まことに残念ながら未だに少なくない。
でも本当は、「女らしく生きることが生き甲斐の女」や「男らしく生きることが生き甲斐の男」の方がずっと少ないのではないか。「女らしさ」「男らしさ」に縛られて、しんどくなったりイライラしたり悲観したり八つ当たりしたりしている人の方が、ずっとずっと多い。