まさに同じ事象がヘイトスピーチ問題にもあるように思われますが、問題を見なかったことにするか、問題に取り組んで相手との溝を深めるか、この問題を解決させない2択の選択肢に慣れ過ぎていることに一抹の不安を感じなくもありません。
現に、かのミソジニー映画監督を無視することはもちろん、批判も簡単なのです。「『女から求められるはずのない、求められたことなんて勿論ない』ってお前は、女性に好かれる努力をしたのか? 求められないのは自己責任じゃないのか?」、「セックスは生き物としての本能だから、正しい(だからヤらせろ)って、本能論の上であぐらをかいているだけだよね? 自分の反省はしないの?」、「女を恨んでいたら、モテないのは当たり前だよね」などいくらでも言えることがある。
しかし、こうした言葉が彼に反省を促すことはないでしょう。「俺は絶対正しい、間違っているのは社会(あるいは女)だ!」という自己愛の壁によって批判は無化されてしまいます。この自己愛がそもそものミソジニーの要因ですし、非モテ男が「もうちょっとオシャレに気を使ったほうが良いよ?」とアドバイスをされても、まったく変わらないのにも同じ心理的メカニズムがあるように思われます。
こうした心理的鎖国状態を解消するには、激しい非難ではなく根気強い説得が必要になるだろうと私は考えます。世に流布する説得術を参照すれば、説得する相手がミソジニーを捨てることで得られるメリットを提示しながら、社会的に疎外された状態からの抜け出す手助けを提案することなどが有効に思われます。では、誰が説得をおこなうのか。これは女性に課せられるべきではなく、男性が「同胞」として説得に関わるべきなのだろう、と思います。
件のインタヴュー記事を振り返れば、ここには男性と女性の対立だけでなく、同性間のモテ/非モテの対立が存在しています。冒頭で、私も「同じ男と思われたくない」と記しましたが、このように「同性だが『俺たち』と違う存在」と差別者を区別し、自分とは無関係のものとして侮蔑的な言葉を投げかけるようでは、私も差別者と変わらないのです。この事実を反省する必要があるでしょう。
ここまで、ミソジニーはなぜ悪いのか、という整理をせぬまま論を進めてしまいましたし、もちろん、今回の炎上案件によってあぶり出された問題は、これだけではありません(そもそもこんなに差別に寛容な世の中で良いのか、とか、フェミニストはなぜ嫌われるのか、など気になる点がたくさんある)。しがない雑文書きではございますが、こうした問題も継続して考えていきたい、と思っております。どうぞ、よろしくお願いいたします。
■カエターノ・武野・コインブラ /80年代生まれ。福島県出身。日本のインターネット黎明期より日記サイト・ブログを運営し、とくに有名になることなく、現職(営業系)。本業では、自社商品の販売促進や販売データ分析に従事している。
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