映画監督、評論家、あるいはフランス文学者といった多彩な顔ぶれによるグラビア論には、あるひとつの共通認識がありました。それは「単なるエロ目線のグラビアもあるけれど『ヤングジャンプ』のグラビアは、違う」ということです。
性的なモチーフをほとんどとらず、「一人の少女の成長を、あたかも定点観測のように切り取っているこの一連の写真たちは、ほとんど擬似的な『家族のアルバム』というべきメディア」(濱野智史)として消費されている。単なる欲望のはけ口ではなく、清純な美少女との擬似的な触れ合いを可能とする、日本独自のジャンルとして『ヤングジャンプ』のグラビアは発展を遂げていた、と。
この論旨もたしかに理解できなくはないのですが、これこそ、私が居心地の悪さを感じたポイントのひとつでした。なぜなら、「これは単なる欲望のはけ口ではない」といくら強弁しても、「清純な美少女との疑似的な触れ合い」は「欲望のはけ口」のひとつではないのでしょうか。本書で語られるグラビア論は、美少女グラビアを「男の恥ずかしくない欲望」として肯定しているだけで、その欲望をモロ出しにすること自体への疑問をなんら打ち消してくれるものではありませんでした。
しかも、他の論客が「ヤンジャンのグラビアはエロじゃない!」と大声を上げているにもかかわらず、本書の大トリを務めるフランス文学者、鹿島茂はそれをあっさり覆すかのように「エロですよ」と認めてしまっています。「脳内でエロチック・イメージを追求したあげく、出た結論は、およそエロチックでないものが真にエロチックであるということになったのだ。女の子のどこにエロスを感じるかといえば、イメージの連鎖を経たあとに残ったシンプルな清純さの中にである。清純さこそがエロチックであるという結論に至ったのである」。精神分析や人類学の知見を用いながら性的なイメージの発展史を描く氏の文章は、毎度ながら見事としか言いようがなく、読みながら思わず震えてしまいましたが、要するに「『ヤングジャンプ』のグラビアもエロだよ!」という紛れもない事実をこの文章は突きつけているわけです。
もちろん、私は欲望そのものを否定するわけではありません。繰り返しになりますが、そうした欲望のはけ口が「表現」や「クールジャパン」や「アート」のひとつだからといってそこかしこに置かれることを許され、平熱で暮らしていることに問題を感じているのです。そうした環境で自然に暮らす人がいる一方で、不快になる人もいるのですから、もっと適切なゾーニングが求められるように思います。
また「欲望剥き出しでもOK!」か「欲望は全面的に浄化すべき」の極端な2択の議論になっていること、これも問題です。世論を鑑みれば、いずれ後者が勝利を収め、欲望そのものが否定されるディストピア的未来しか想像できません。そのような息苦しい将来の訪れを防ぐ意味でも、我々は欲望に対してもっと慎ましくなっていくべきではないのか……そんなことを思う夏の終わりです(エロ広告満載のサイトでこんなことを書いていても、説得力ゼロですが……)。
■カエターノ・武野・コインブラ /80年代生まれ。福島県出身。日本のインターネット黎明期より日記サイト・ブログを運営し、とくに有名になることなく、現職(営業系)。本業では、自社商品の販売促進や販売データ分析に従事している。