しかし、杏奈とマーニーとの秘密を媒介にしたつながりには、恋愛関係との類似だけでなく、「友人関係の確認の仕方」が男女でこんなにも違う、と痛感させられました。劇中では、無口な釣り人の風変わりなところを3人の少年が、一緒になってはやし立て揶揄するシーンで、わずかにその対比が描かれます。少年たちのそうした行為は、周囲に対する自分たちの仲の良さのアピールに見えるのです。3人が口々にヤジを飛ばすことで「俺たちは同じ意識をもっている仲間だぞ!」と周囲に見せびらかすように。
これに対して、杏奈とマーニーは自分たちがなにを共有しているかアピールすることはありません(秘密なのですから当然です)。これはおそらく男女の相違で、自分の子供時代を振り返っても思い当たる節があります(スポーツやいたずら好きの少年たちが自分たちの関係の強さをしきりにアピールする教室の片隅で、隠れるように仲睦まじく小声で話し合う少女たちの光景を誰もが一度は見ているかもしれません)。少年たちのアピールは成年となってもホモソーシャルな友情の確認作業につながりますが、少女たちの手法は成長するにしたがって維持することが困難になります。限られた個人間での「秘密」を保持し続けることは誰しも難しいからです。だからこそ、少女たちの秘密は儚くて美しく感じられるのです。
なんてことをつらつら書き連ねていると、「少女に幻想を仮託してんじゃねーよキモロリコン!」と罵倒されそうなのでもうやめます。あくまでも彼女たちは映画の登場人物ですからね……。それにしても、映像表現も含め『思い出のマーニー』は実に美しい映画だったのですが、これがブラック企業みたいなところで制作されていると思うとちょっと複雑です。
■カエターノ・武野・コインブラ /80年代生まれ。福島県出身。日本のインターネット黎明期より日記サイト・ブログを運営し、とくに有名になることなく、現職(営業系)。本業では、自社商品の販売促進や販売データ分析に従事している。