「おめでとう」の強制
一般人のマタニティ・ヌード、マタニティ・フォトで、写真の提示するイデオロギーが問題になることは少ないが、SNSへのアップや年賀状でばらまくことに関しては、当然ながら賛否両論ある。撮った個人が記念にしたり楽しむ分にはなにも問題はないが、単純に、たとえ妊婦ではなくても知り合いの裸を見ることを「気まずい」と感じる人間は多いことと、少子化・非婚化問題やSNSで求められる過剰共感的コミュニケーションの地場が重なり、そこに、結婚ネタと妊婦と赤ちゃんにはテンションを上げて「素敵! かわいい!」と言わなければいけないような「祝いの強制」も含まれることによって、行き場のない不毛さと居心地の悪さを感じる人もいるからである。
こうしたSNSでのコミュニケーションをはじめ、「祝いの強制」を無視する権利は誰にでもあるはずなのだが、どうにも「おめでたいことを祝えないなんて大人気ない」という空気がある。ゆえにこの権利を行使できない人も多いのではないかと思う。
「公共交通機関で妊婦やベビーカーが疎まれる」ことなどは捨て置けない大きな問題ではあるが、個人的には、結婚・妊娠ネタや子供ネタにテンションを上げて「素敵! かわいい!」と言わなければいけない雰囲気への違和感は、居酒屋やレストランで全くの他人へのバースデーソングを歌うことや手拍子を店員に促されるような居心地の悪さと似ているように思う。心が狭いと言われようが何と言われようが、私は赤の他人へのバースデーソングを歌ったり手拍子を叩くことに抵抗がある。とりわけ一人で入った店でそのような現象に遭遇すると、それだけで店を出たくなる。
飲食店で誕生日を祝うこと自体は迷惑行為ではないが、飲食店で食事する人間の全てが陽気な雰囲気に適応できる状態である必要がまずないし、深刻な打ち合わせや、集中して仕事の細部を確認する最中の人間だっているかもしれない。しかし、店員が店の客全員に参加を促すことによって、バースデーソングや手拍子に参加しないことは、誕生日パーティーに“反発”する態度として受け取られやすい。これは非常におかしな話である。飲食店の客には、他のテーブルの客に対して無関心でいる自由があるからだ。
もし、店側が「誕生日を祝う客がいた場合は、その場にいる全ての客が祝うべきである」とう方針を取りたいのであれば、あらかじめそれをアナウンスすべきであると思う。分煙よりも、このような「祝いの強要」とも受け取れるシステムに私はストレスを感じるのだが、前述の通りなぜだか「乗らないのは大人気ない」という価値観とセットになっているので問題になりにくい。
マタニティ・フォトやことさらに母性を賛美するママブログやSNSの撒き散らす母性イデオロギーと、お祝い事に巻き込まれる居心地の悪さには薄いつながりがあるように思う。いずれも、行為を「している側」には一切悪気がないのだが、受け取り手や周囲の人間が「迷惑だ」「スルーしたい」と感じていても「乗らなければならない」という点が共通項だ。少なくとも、マタニティ・ヌード、マタニティ・フォトそのもののポリティクス、およびそれらを公開することのポリティクスに関しては、芸能人であれ一般人であれ、無自覚であってはならないだろう。
■ 柴田英里(しばた・えり)/ 現代美術作家、文筆家。彫刻史において蔑ろにされてきた装飾性と、彫刻身体の攪乱と拡張をメインテーマに活動しています。Book Newsサイトにて『ケンタッキー・フランケンシュタイン博士の戦闘美少女研究室』を不定期で連載中。好きな肉は牛と馬、好きなエナジードリンクはオロナミンCとレッドブルです。Twitterアカウント@erishibata