いわばファンたちによる墓参りのような場所になっている故人のブログコメントは、他にもある。2008年に亡くなったタレント・飯島愛のブログも死亡後削除されることなく残されているが、そこにも9月18日現在、7万件を超える書き込みが寄せられている。
「お盆だね~愛ちゃんこっちに来てる~?またね~」
「まーた仕事やめちゃったよ 本当ダメな奴 生きていくのも大変だのー。」
「義家族癖が強いょー 特に義妹 離婚したくないけど 離婚したい」
ざっと眺めるだけでも、自身の近況を綴ったもの、もはや家族が亡くなったかのような距離感で折に触れて思い出しブログに立ち寄っているようなものばかりでコメント欄が埋め尽くされている。家族や友達にも言えないようなことを書き込んでいるものもある。どちらかというと、やっくんブログより飯島愛ブログのコメント欄の方が熱量が高いが、いずれにしても故人のブログにこのようにコメントを寄せ続ける者は一定数存在し、精神の安定を図るうえでブログへのコメント書き込みが必要不可欠になっているかのような印象すら受ける
故人のブログが墓となり、墓参りのごとくコアなファンが通い詰める現象は致し方ないだろう。ところがやっくんのブログコメント欄には、ちょっと違った趣のものも見受けられる。
「やっくん大好きです。亡くなってからで遅すぎですが、やっくんの永遠のファンです。」
「やっくんは、僕よりだいぶ若いのに、亡くなってからやっくんから教えてもらったこと、沢山ありました。尊敬しています、姉御。」
こんなふうに、いかにも“そんなにファンじゃなかった者たちの書き込み”が多々あるのだ。
訃報が流れた直後から、ブログコメント欄は「ご冥福をお祈り致します」「今、yahoo!ニュースで見ました」など速攻で冥福を祈る書き込みが殺到していたが、それ自体も違和感を覚える。思い入れの強いファンであったなら、突然の訃報にショックを受けてすぐに「ご冥福を祈る」心境にもなれないものではないだろうか。ファンであれば死を受け止めるのにも時間がかかるはずであり、ネットで弔いの気持ちを吐露するよりは実際に墓参りなどに出かけるなど何らかの行動を起こすだろう。例えば家族や親友が死んだとして、速攻でその当人のブログやSNSにメッセージを寄せるなどということは難しいし、また節目になろうと、ネットに書き込みを行うという発想にはなかなか至らない。そう考えると、こうした弔いコメントは“亡くなった本人を思い出している自分”に酔っている、単なる自己満足であるようにも思えるし、“1周忌というちょっとしたイベント”にただ参加したいだけ、のようにも見えてくるのである。
■ブログウォッチャー京子/ 1970年代生まれのライター。2年前に男児を出産。日課はインスタウォッチ。子供を寝かしつけながらうっかり自分も寝落ちしてしまうため、いつも明け方に目覚めて原稿を書いています。
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