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自画像・セルフポートレート・自撮り・プリクラにおける『私』の在処

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(C)柴田英里

(C)柴田英里

 先週の記事では、『AMO×HIROMIX SPECIAL PHOTO BOOK』の詩の内容について主に言及したが、その後も、あの一連の詩を書いた人物が誰なのか気になり、調べていたら、HIROMIX作の詩であることがわかった(HIROMIX公式Twitterに記載)。そこで今回は、女性のセルフポートレートの歴史と自撮りとプリクラについて考えてみようと思う。

 とても大雑把に言えば、女性が描かれた絵画や女性を写した写真は、長く、「みる男」と「みられる女」、まなざされる“もの”としての女性、視線による性的搾取などの問題を抱えてきた。女性画家の自画像や、女性写真家のセルフポートレートは、そうした、「見るものにとって都合の良い見られるもの像」への懐疑や批判、「見るものにとって都合が良い私とは別の私」の表現であった(それだけではなく、現在よりもずっと女性作家が男性作家に比べて社会で評価されづらい傾向にあった時代、女性作家にはモデルを雇う金銭や機会に恵まれにくかったということを示すことでもあったが、これについては別の機会にでも述べたい)。

 1990年代半ば、その後の「女の子写真ブーム」の元祖であるHIROMIXが登場する。撮影技術よりも写し出された叙情性に重きを置き、「女の子の憂鬱の眼差し」を撮った彼女の作品は、「テクニックに基づく男性の視点中心主義」であった日本の写真界に革命をもたらした。1996年には『STUDIO VOICE』(INFASパブリケーションズ)において「HIROMIXが好き」という特集が組まれたり、音楽CDのリリースや、ソフィア・コッポラの映画への出演など、HIROMIXが「女の子写真ブーム」だけでなく、「ガーリーカルチャー」のひとつのアイコンとなったことは間違いない。

 しかし、「ヘテロセクシャルの男性中心主義の眼差し」へのカウンターであった「女の子の憂鬱の眼差し」は、「女の子写真ブーム」の中で徐々に形骸化していき、「素人っぽさ」や「対象や現実を避けた自慰行為」、「男性の眼差しに劣るものとしての女性の眼差し」という読み替えがされてしまったり、「女の子の憂鬱の眼差し」の持つ犠牲者性が、「可哀想であることが可愛い」というような「もののあはれ」として肯定されすぎてしまったゆえに、「ヘテロセクシャルの男性中心主義の眼差し」へのカウンターという機能は薄らいでいった。

 現在の女性の自撮りカルチャーも、基本的には「私が思うカワイイ私」「眼差しを受け入れる私」の表現が中心であり、「ヘテロセクシャルの男性中心主義の眼差し」へのカウンターは弱い。

 「ヘテロセクシャルの男性中心主義の眼差し」へのカウンターとしての機能は、自撮りよりもプリクラにおいて発展したのではないかと思う。

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柴田英里

現代美術作家、文筆家。彫刻史において蔑ろにされてきた装飾性と、彫刻身体の攪乱と拡張をメインテーマに活動しています。Book Newsサイトにて『ケンタッキー・フランケンシュタイン博士の戦闘美少女研究室』を不定期で連載中。好きな肉は牛と馬、好きなエナジードリンクはオロナミンCとレッドブルです。現在、様々なマイノリティーの為のアートイベント「マイノリティー・アートポリティクス・アカデミー(MAPA)」の映像・記録誌をつくるためにCAMPFIREにてクラウドファンディングを実施中。

@erishibata

「マイノリティー・アートポリティクス・アカデミー(MAPA)」

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