ソビエト連邦の国防省機関誌に「鉄の女」と避難されたことを逆手にとって、「鉄の女」を自称したイギリスの故マーガレット・サッチャー元首相同様、ウェットな振る舞いとして「魔女」を自認する女性アーティストや、「魔女性こそを表現の信念」にするアーティストももちろんいるのだが、この差が見え辛くなっていることも、「魔女」というゾーニングの問題点だ。
それは、現代日本の女性アーティストにおける「アイドル性」も同様だ。一番の元凶が「見るもの」が振りかざす欲望と権力であることはいうまでもないが、むしろ、不完全なもの・稚拙なものを愛でることや、ネオテニーにあぐらをかいた「表現者のアイドル化」は、女性芸術家の「魔女」問題よりもずっとタチが悪い。
作品と作者は、関係することもあれば無関係になることもある。作品の質が問われず、作者への評価のみになってしまうことは、作者の意図が「とにかくお神輿をかつぐようにただただヨイショされたい」という場合を除いて不幸な結果をもたらすように思う。
「アイドル」として、悪いものとしてゾーニングされた「スティグマとしての女性性」によって、「男性論理」に揺さぶりをかける。「不当にしか扱われないのなら、ナメきった態度で、精一杯のイヤガラセをします」という理屈であればわからなくもないが、発想が幼すぎるし、悲しい需要と供給の現状からそれしか方法がないような場合にしても、「自爆テロ」の機能しか果たさないことがほとんどであると思う(付け加えれば、自爆すること自体が問題なのではなく、自爆テロによって無関係な被害者が発生することが問題なのだ)。
「アイドル」性をまったく利用するな。と言っているのではない。作品と作者は否応なく関係することもあるのだから、作者のキャラクターだって有効活用すべきである。
私はこの夏ユリイカ 2014年9月 臨時増刊号 総特集◎イケメン・スタディーズ に関わったのだが、その時、「男が己の美醜に耽溺するなんてけしからん」というような意見をみた。アイドルとして女性表現者を評価する風潮とは逆に、男性表現者は、「かたくなに、ストイックに己の容姿を拒否し、精神性だけで勝負しなければならない」という信念にのみ突き動かされることも、なんだか生き辛くマッチョであると思えてしまう。
アイドル(魔女)としての女性表現者と、己の容姿に耽溺することを蔑まれる男性表現者、これは、「みられるものとしての女性」と、「みるもの(みられることのないもの)としての男性」という非対称性が浮き彫りになるようだ。
男性にしか権利がなかった時代、男性しか美大・芸大に入れなかった時代(東京藝術大学はもとは男子校でした)、ゲリラ戦のように立ち向かい権利を勝ち取ってきた女性表現者がいる。彼女たちは、「自分が自分らしく生きるために」「自分がしたい表現をするために」血反吐を吐きながら戦って、権利を獲得してきた。その歴史と文化遺伝子は、アカデミズムの中だけでなく、あらゆる場所に残し、発展させることが重要なのだ。
■ 柴田英里(しばた・えり)/ 現代美術作家、文筆家。彫刻史において蔑ろにされてきた装飾性と、彫刻身体の攪乱と拡張をメインテーマに活動しています。Book Newsサイトにて『ケンタッキー・フランケンシュタイン博士の戦闘美少女研究室』を不定期で連載中。好きな肉は牛と馬、好きなエナジードリンクはオロナミンCとレッドブルです。Twitterアカウント@erishibata
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