今年の夏は、ろくでなし子氏の逮捕やそれにまつわる報道、鷹野隆大氏の愛知県立美術館での展示への警察からの撤去指示など、「芸術か猥褻か」問題が話題になった。私自身も、東京藝術大学において開催されたろくでなし子氏を招いてのシンポジウム「表現規制と自由——ろくでなし子逮捕事件、そして、身体表現のポリティクス」に登壇したこともあり、この問題をうやむやにしてはいけないという意識がある。
シンポジウムの感想などは次回の記事で述べようと思っているのだが、その前に、日本の女性表現者、とりわけ芸術家に関する最近の違和感を書き記しておこうと思う。
日本では、「芸術か猥褻か」の問題同様に、「芸術家かアイドルか」「女性表現者=魔女」の問題も、根強く、また、議論される機会が少なかったからだ。
1971年のリンダ・ノックリンの論文「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか」(日本では、1976年の美術手帖5月号で全文掲載された)を皮切りに、日本でも、女性芸術家の位置づけられ方や置かれてきた状況について議論されることはあった。だが、現在まで、それが有意義な形で残っているとは言い辛い。美大教育でも、女子美術大学以外では、教科としてジェンダースタディーズの観点から美術史や美術作品を考える授業は行われていない(個々の研究室で考察されることや、学生個人が研究することはあっても、どの科の学生も受けられる講義にはなっていないため、どうしても敷居が高くなり継承されにくい分野となる)。
女性アーティストが全てジェンダーの問題を扱っているのかと問われれば無論そうではないし、女性であることとアーティストであることも関係ない。
だが、「男性アーティスト」という言葉がほとんど使われないこととは逆に、「女性アーティスト」「女流作家」「女性○○」という存在が語られる時には、当人の表現やスタンスがどうであれ、「女性性」や「母性」、「身体性」といった、論理的思考よりも感性が重んじられ、「男性論理」の周辺にあるアウトサイダー、マイノリティとして捉えられる傾向が強い。
女性アーティストの表現をアウトサイダー、マイノリティ、他者の思考としてとらえていることを、良くも悪くも強調したり、思想の是非をとりあえず保留するため使われている言葉がある。それは、草間彌生やオノ・ヨーコをはじめとした女性アーティストにしばしば与えられる「魔女」という呼称であろう。
「魔女」という言葉は、とても便利なのだ。ポジティブであれネガティブであれ、「既存の男性的論理とは別の思想」をわかりやすく伝えられる言葉であると同時に、さして内容などなくても「魔女」という未開の地の住人であれば、説明責任が発生しないこともある。
「魔女」という言葉には、「差別形態としてのゾーニング機能」と、「責任を追わなくても良い権利(責任が求められない他者性)」があるのだ。
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