前回ご紹介した小説家、川上未映子の妊娠・育児エッセイ『きみは赤ちゃん』(文藝春秋)には、同業者である夫、阿部和重への不満がかなりストレートに綴られている。たとえばこんな具合。
妊娠25週目のおなかの赤ちゃんがどんな状態か、知ってる? と聞いてみた。(中略)でも、あべちゃんは知らなかった。わたしはそれにたいして急激に怒りがこみあげた。というのも、そういうのはネットで検索すればいくらでも知ることのできる情報であり(中略)その時間はたんまりあるはずなのに(中略)ただの一度も検索をしたことがない、ということに、わたしはまじで腹が立ったのである。これはたんに興味がないだけの、証拠じゃないか!
この文章を読まなかったら、自分が同じ境遇に立たされたときに、妻からまったく同じ怒りを買っていただろう、と思って胸が痛くなった。そうした言葉はいくつもあった。たとえば、阿部が初めて自分の子供と対面したときの記述。号泣した川上に対して、彼は、嬉しいのか、不安なのかよくわからない表情でいた、だとか。あるいは「自分の命を投げ出しても、この子を救えるか」という問いに、躊躇なくYESと答えられない、だとか。
ここには、妊娠・出産という肉体的・精神的な重みを一挙に背負い、我が子を無条件で愛せる(と、されている)母親に対して、口では「心配している」と言いつつも、その差をもはや数値化して比較することができないほど少ない負担で、子供と対面する父親の無責任さがあらわれているように思う。
お姫様の感覚で「父親」になりたがる
阿部・川上の夫婦は、両性の同意と決定によって「子づくりをしよう」ということを決めている。当然、阿部も子供が欲しかったハズである。にも関わらず、どうしてこのように無責任な(と思われる)父親になってしまったのか。そして、無責任にどうして「子供が欲しい」と言えるのか。そんな疑問が浮かんだし、当然、その問いかけは自分にも返ってきた。「果たして自分は『子供が欲しい』なんて思って良いのだろうか? どうしたら子供に(そして妻に)責任が持てるんだろうか?」と。
折しも、絶賛子育て中のワーキングマザーの友達がTwitterでこんなつぶやきをしていた。
「子供が欲しい」と口走る男性は思いのほか多くて、その都度びっくりする。「あなたが? なんで? なんのために?」と訊いても、「遺伝子を残したい」とか意味不明なことを言う。残す必要ある???
彼女もまた、男性の無責任さに苛立ちを覚えていたのだった。これはなかなか辛辣な表現だけれど、考えさせられるものがある。
1 2