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ミス・キャンパス候補生たちが演出する内面性について

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(C)柴田英里

(C)柴田英里

 秋もいよいよ深まり、全国津々浦々の大学ミスコンの結果がほぼ出そろう時期になってきた。

 ミス・キャンパス、大学におけるミス・コンテストが始まった正確な年は定かではないが、1970年代後半もしくは1980年代初頭に青山学院大学からはじまったという説が有力である。その後、1983年から10年弱放送された『オールナイトフジ』(フジテレビ系)をはじめとした女子大生ブームによって、全国の大学にミス・コンテストは浸透していった。1980年代後半から1990年代初頭にかけて、性の商品化・女性の記号化や性差別、人権侵害といった観点からミスコン批判が盛り上がったものの、ミスコンを中止する大学は多くはなかった。

 2009年から2010年にかけて、『オールナイトフジ』の復刻番組として放送された『キャンパスナイトフジ』もそこそこに盛り上がり、たくさんの企業がミス・キャンパスのスポンサーになる現状があるように、女子大生の価値を高めるミスコンの存在感は今も衰えていない。近年では、ミスコン否定派(2012年京都大学では、ミスコンの形態によく似たファッションイベントが反対派の運動と議論の末に中止されるということが起こったが、こうしたことはごく稀だ)よりも、女性の自己表現としてミスコンを捉えたり、「ミスコンが叩かれるならばミスターコンテストを付け加えよう(=これで男女平等だ、ドヤッ)」といった声の方が大きいと言えるだろう。

「身も心も美しい女性」を表現する陳腐な技法

 「ミスコン」について、「男性が女性を外見により評価し、美の基準により序列化する男性優位社会の象徴である」というだけの批判はあまりに単純であるし、「外見の美しさ」もひとつの才能だ。それに異を唱えることは、「美」と言う才能を蔑ろにしてしまう側面もある。

 だがそれよりも、現在のミス・キャンパスコンテストたちの「クライマックスはウエディングドレスで親からの手紙を読み、感動のあまり涙」とか「なぜだか同時に問われる内面の美しさ」とか「理想の結婚相手や好きな“異性”のタイプが必ず問われる」とか――クリシェ化した陳腐な演出になんの疑問も持たない女性たちが大勢いることの方が、私は問題だと思っている。女子大生たちは、「男性が女性を外見により評価し、美の基準により序列化する男性優位社会の象徴である」という問題提起があったことすら知らずに微笑んでいる。

 私は、「ミスコンを廃止すればオールオッケー」という気持ちにはどうしてもなれないし、「外見の美しさ」というのは、若さや持って生まれたものだとしても、ひとつの才能であると思う。

 個人的にはミスコンの是非よりも、外見の美しさと内面の美しさに、なぜだか「片方だけではいけない」という圧力がかかることの方に疑問を感じている。ミスコン以外の例を上げれば、オリンピック競技の順位判定に選手の人格は関係ないのに、オリンピックでメダルを獲得した選手には、「優れた人格も持った人」というストーリーが付け加えられることも同様に疑問だ。

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柴田英里

現代美術作家、文筆家。彫刻史において蔑ろにされてきた装飾性と、彫刻身体の攪乱と拡張をメインテーマに活動しています。Book Newsサイトにて『ケンタッキー・フランケンシュタイン博士の戦闘美少女研究室』を不定期で連載中。好きな肉は牛と馬、好きなエナジードリンクはオロナミンCとレッドブルです。現在、様々なマイノリティーの為のアートイベント「マイノリティー・アートポリティクス・アカデミー(MAPA)」の映像・記録誌をつくるためにCAMPFIREにてクラウドファンディングを実施中。

@erishibata

「マイノリティー・アートポリティクス・アカデミー(MAPA)」

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