日本を代表する小説家のひとり、村上春樹は読者との交流サイト『村上さんのところ』(近日新潮社より書籍化)のなかで「文章上達法」についての質問にこんな回答をしている。「文章を書くというのは、女の人を口説くのと一緒で、ある程度は練習でうまくなりますが、基本的にはもって生まれたもので決まります」。
なんとも身も蓋もない回答だけれど、文章は練習すれば、書けば書くほど「ある程度は」上手くなるということは真理であって、その法則は『ピンクとグレー』(角川書店)でデビューした加藤シゲアキの小説にも当てはまる。まずは、処女作に続く2つの長編『閃光スクランブル』、『Burn. -バーン-』(共に角川書店)で、彼がどう作家として上手くなっているかを見てみよう。
重層的なストーリーの語り口に挑戦
『閃光スクランブル』では、妻の事故死がきっかけでパパラッチに身を落としている天才写真家の巧と、国民的人気アイドルグループに所属しながらも有望な新人の加入で自分の立ち位置が危ぶまれている亜希子という、ふたりの傷ついた主人公を交互に描いている。
パパラッチとアイドルは、当然ながら敵対関係にある。事実、精神的に不安定な亜希子が中年の人気俳優と愛人関係を結んでいることを嗅ぎつけた巧は、格好のゴシップネタとして亜希子を追いかけるようになる。そもそも、亜希子がグループ内での地位を脅かされるようになったのも、巧が同グループの人気メンバーのゴシップ写真を週刊誌に売りつけたことがきっかけだった。しかしこの関係は、ストーリーが進むに連れて、互いの傷を癒すような協力関係にまで変容していく。
将来有望な作家として評価されている劇作家のレイジを主人公においた『Burn. -バーン-』は、公演の予定が直前に迫っているにも関わらず、まったく脚本が書けていないという危機からはじまっている。レイジには、かつて天才子役として人気を博した過去がある。しかし、その当時の記憶は完全に失われていた。この失われた記憶を取り戻す過程が、現在のスランプを乗り越えるきっかけとなる。
処女作と比べると登場人物も増えているし、ふたりの主人公のストーリーを交互に語ったり、過去と現在を行き来しながら話を進めたりと、小説のテクニックの習得に熱心だ。処女作は話が一方向に進んで行くシンプルなミステリーとして読めるのに対して、以降の作品では重層的にストーリーの編み方にチャレンジしているように見えるのだ。語り口の滑らかさは作を追うごとに増していて、どんどん読みやすい小説を書けるようになっているように思う。
上手くはなっているが、面白さは……
しかし、問題はこの成長が小説の面白さと比例していないことである。
処女作からの3作は渋谷を舞台にした「渋谷サーガ」と位置付けられているのだが、三部作のサーガは小説の上達ぶりに比例して、残念な感じになっている。おそらくひとつの作品に詰め込めること、書くことのできることが増えてしまった分、全体としての印象が弱まっているのだろう。
『Burn. -バーン-』の消化不良感は特にヒドい。配置された伏線が後半にすべてご都合主義的に回収されるか、あるいは中途半端な活かされ方しかしていない。なかでも主人公が記憶を失った理由も曖昧なままなのは致命的なミスではないだろうか。「え!? 重要でしょ、そこは……!?」と驚いてしまった。書き忘れなのか……?
もっとも不満に思ったのは、主人公レイジの妻の出産というシーケンスである。序盤にレイジと妻を乗せた車が事故を起こし、妻は意識不明の重体となって、母子ともに命が危ぶまれる、というハラハラさせる含みがある。その後、意識を取り戻した妻は、事故をきっかけに急激なマタニティブルーに陥ってハラハラはさらに高まる。処女作で主人公の片割れを自殺させ、エンディングでもう一方の主人公の死を暗示させる鬱展開を披露した加藤の作品であるから、またもや鬱展開か……と身構えてしまうところだ。
だが、その期待は残念な方向に裏切られてしまう。レイジの子供は無事にこの世に生まれ、不安定だった妻も出産が終わるとすぐさまに「母親」としての自覚が湧き、マタニティブルーから立ち直り、精神不安定さも一掃される。加藤シゲアキの読者には、出産経験のある女性も多いと思うのだが、彼女たちはこうした男性目線の神話的な母性の働きによって復活するレイジの妻の描写になにを感じるだろうか。非常に紋切り型ではあるが「人間が描けていない……!」と言いたくなる。
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