連載

古風な日本の私小説とお笑い批評 又吉直樹 『火花』

【この記事のキーワード】
『火花』(文藝春秋)

『火花』(文藝春秋)

お笑いコンビ、ピースの又吉直樹の処女小説『火花』(文藝春秋)が芥川賞を受賞した。こういうことがあると一昔前ならば「単なる話題作り」という批判もおこっただろうけれど(綿矢りさや金原ひとみが受賞した時のように)、今のところ私の周りでは至極反応が穏やかであって「ちょっと驚いた(けれど、どうでも良いニュース)」として受け止められている。「気になっていたけど、まだ読んでいない人」も多いと思うのだが、そういう人には「こういうのは『読みどき』みたいなものがあるから、早いうちに読んでおいたほうが良いよ」というアドバイスをしておきたい。

古風な日本の私小説

本作を一読したときにまず感じたのは「随分、古風な小説だな」ということだった。日本の古い伝統的な私小説そのもの、という感じさえする。主人公の徳永というパッとしない漫才師は、自分の才能のなさについて悩み、また集団のなかで上手く立ち振舞うことができず煩悶する。ここにあらわれた自意識の問題は、私小説的な主題のひとつだろう。

徳永は、よく誤解を受けたと述懐している。緊張で顔がこわばっているだけでも「他人に興味がないことの意思表示」と思われた。他人にそう指摘されると、自分ではまったくそんな意図がなかったのにもかかわらず「いつの間にか自分でもそうしなければならないような気になり、少しずつ自分主義の言動が増えた」。他人から貼られたレッテルがついしか本当の自分を形成してしまう(そのような自己とは一体なんなのか)という面倒な問題が、そこでは浮かび上がる。

太宰的なものを強く彷彿とさせる主人公

「私」の問題、あるいは徳永の造形は、作者が小説家としてデビューする前から「愛読家芸人」的な文化人と芸人の中間のような立ち位置で、その共感を語ってきた太宰治を彷彿とさせる。

例をあげるなら『人間失格』の「第一の手記」の冒頭で語られる「また、自分は、空腹という事を知りませんでした」で始まる一節。徳永と同じように『人間失格』の主人公もまた、他者の言葉によって自分が形成されるような思いをしているのだ。

「自分には才能がない」「大したことがない」「ダメな人間だ」などと散々卑下していながらも、突如として「誰がなんと言おうと◯◯は美しい」と強く断定的な物言いで価値判断をする傲慢さも太宰的に思えた。自己卑下からの突拍子もない価値判断が、こじれた自意識の肥大を印象付けているのだ。

1 2

カエターノ・武野・コインブラ

80年代生まれ。福島県出身のライター。

@CaetanoTCoimbra

[PR]
[PR]

messy新着記事一覧へ

火花