いつのまにか「毒親」が「なんとなくヒドい親」のようにイメージされ、それぞれが「毒親論」を語るようになる。すると子育てに悩む親が、「私は毒親なのかもしれない」と思いつめてしまったり、子供が「(虐待を受けているにもかかわらず)自分の親は毒親とまでは言えないかもしれない」「みんな毒親で苦しんでいるんだから我慢しなくちゃいけない」と考えかねないことになる。救える人を救えず、苦しまなくて言い人が苦しんでしまう。たいへん不幸なことです。
これはある種「毒親ブーム」の功罪ともいえます。そういう意味で水島さんの「毒親ブームが嫌いだ」という発言に反感は覚えませんが、言葉は慎重に選ぶべきだったと思います。「ブーム」と語ることは「ただの流行」と捉えられかねませんし、「嫌い」という言葉は、「毒親を問題視すること」にかかっているように思われかねない。水島さんの著作を読んできた読者にはその真意がわかるのかもしれませんが、誰もがアクセスできるTwitterでそれは通用しません。
また発達障害と毒親を安易に結びつけるのは、どちらも誤解されがちな言葉であるがゆえに、さらなる偏見を生みかねませんし、「子どもは許す天才」という発言も、「なぜ(立場的には弱い)子供が許さなくてはいけないのか」という反感が出てきて当然です。そういう意味で水島さんの発言は非常に軽率だったと思います。
水島さんは来年、書籍という形でこの考えをまとめられるようですが、ご自身の見解を改めてお話していただきたいところです。
「毒親」がブームになる背景には、神格化された親子関係があると思います。それは「母親は常に母親であるべき」という「母性神話」と同質のものでしょう。「親は親であるべきで、子は子であるべき。そして親子は一緒にいるのが幸福だ」という考えが神格化されるほど、幸福な関係を築くことが不可能な人を苦しめてしまう。「幸せ」「正しい」とされるものが、全ての人に当てはまる価値観や関係ではないということを考えなくてはいけないと思います。
(門田ゲッツ)
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