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ワーカホリックだったつんく♂が「ジョンとヨーコみたいに」変わった理由『だから、生きる。』

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『だから、生きる』(新潮社)

 今年4月、声帯摘出手術を受けたことを公表したつんく♂(46)が、新潮社から書き下ろしの自著『だから、生きる。』をリリースした。そこに綴られていたのは、ワーカホリックな音楽人間だった過去、妻と出会い子供を持ったことで変化した自身の現在。長時間労働が未だ当然視される働きすぎ国家・日本の、老若男女すべてに読んでほしい「生き方論」である。

薬にどっぷり依存していた20~30代前半

 そもそもつんく♂は、どんな仕事をしている人なのか。化粧をして派手な衣装でステージに立つバンド「シャ乱Q」のヴォーカルとして、1992年7月にメジャーデビュー。94年にリリースしたシングル「上・京・物・語」と「シングルベッド」でジワジワ売れ始め95年の「ズルい女」で大ブレイク。第46回NHK紅白歌合戦に出場、ミリオンヒットを連発、97年には主演映画『シャ乱Qの演歌の花道』が公開されるなどまさにスター状態だった。しかしその時期にはもう、「少しずつ人気に陰りが出ている」と敏感に察知したつんく♂は、新たな一手としてアイドルのサウンドプロデュースに乗り出す。それがモーニング娘。およびハロー!プロジェクトだ。

 シャ乱Qが軌道に乗るまでのおよそ3年間は、バンドメンバーたち自ら機材車を運転して地方へライブ営業へ行き、終わるとまた機材を積んで帰り、衣装をクリーニングに出してまた地方へ――合間に突発のラジオ出演などをこなし、もちろん曲作りやレコーディングもする。がむしゃらに働くつんく♂は、ベッドに入るのが明け方になる日も増え、効率よく睡眠をとるべく睡眠導入剤を利用するようになり、その後も長年にわたって服用していたという。

 「ズルい女」のヒット以降は、自分たちで車を運転することも電車に乗ることもなくなり芸能人然とした生活になっていったが、曲作りと作詞、レコーディング、ライブツアーを精力的におこない、「仕事以外のことは頭にない、というような毎日」。半年に一日休みがあればいいくらいだったという、まさにワーカホリックだ。「朝までスタジオで作業をして、そのまま新幹線に飛び乗り、移動時間にちょっぴり眠るだけで、地方でライブなんてこともざらだった」。もちろん過酷なスケジュールに体は悲鳴を上げる。胃痛や頭痛などの症状に合わせて薬や点滴で対処し、なんとか乗り切っていたのだという。それで自己管理、体調コントロールが出来ていると思い込んでいた。

 ではバンド活動をセーブし、アイドルたちのプロデュース活動に打ち込んでいた頃の生活はどうだったか。そもそもアイドルプロデュースとはどういう仕事なのか、よくわからない人が多いのではないかと思われるが、その説明も本書は親切だ。まずつんく♂は音楽家なので、彼女たちが歌う曲作りを行う。多いときは年間100曲以上を制作。彼のスケジュールには「作曲のため」に割り当てられる日があり、たとえスランプでも「作曲日は、一日に最低でも一曲は書き上げる」ことを守っていた。アレンジャーへの指示、レコーディング時のミュージシャンやエンジニアへの指導、アイドルたちへの歌唱指導に、仮歌録音。アイドルたちの歌声を録り終わってからコーラス録音、そして録音した声や楽器などをコンピュータで編集する作業を経て、仕上げのトラックダウン作業に自ら取り掛かる。それは時間がいくらあっても足りないだろう。モー娘。が「LOVEマシーン」の大ヒットで一気に国民的スターと化した99年からの3年間は、「記憶が飛ぶほど仕事ばかりしていた気がする」とつんく♂は述懐する。

 モー娘。に関しては「本当に一から十まで自分で仕切っていた」というつんく♂。5期あたりまでのメンバー選出なども彼自身が決定権を持っていたという。しかしハロプロのユニットが増えるにつれて、すべてをつんく♂がトップダウンで決めるには規模が大きくなりすぎた。同時に、俳優業や執筆業にも進出し、常に頭が冴えていて布団に入っても眠れない。やはり睡眠導入剤もしくは酒が手放せなかった。つんく♂はヒットメーカーとしてチヤホヤされ、移動は常にカーテンを閉め切った車の後部座席、引越しの手配も事務所のスタッフがしてくれ、「しまいには自分がどこに住んでいるかさえ分からなくなった」「箱の中で暮らしているような感覚」と当時を振り返っている。

 これほど徹底して仕事人間、完璧主義の職業人だったつんく♂だが、やがて仕事漬けの生活を脱する。変えたのは、結婚と出産だった。

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