私自身の話
本の制作に乗り出した経緯をお話するうえで、簡単に私自身の生まれ育ちについて話しておこうと思います。私は、美術系大学で知り合った両親のもとに、三人兄妹の末っ子として生まれ、両親と兄と姉と暮らす家で育ちました。いわゆる辞書的意味合いの家族に生まれ育ったのであります。
そんな私は、中学で不登校になり、初めてマイノリティ経験に遭遇しました。今思えば、おそらくその経験がきっかけで“社会の当たり前”という存在に気が付いたのでしょう。“社会の当たり前”という常識が、圧力として機能する側面を持つことを知り、それに対して敏感になったとも言えるかもしれません。
家族について考えるきっかけ
私はそもそも男女交際とか付き合うといった性愛の様式が苦手でした。そのため結婚(入籍)などは尚更したいともしようとも思ったことがありません。また、セックスが必ずしも恋愛の延長にあるというような考えも持っていません。しかし、そう話すと「好きでもない人とセックスをするの?」と疑問を返されたことがありますが、別にわざわざ嫌いな人と自らの意思でセックスをすることはありません。「好き」にも多様なバリエーションがあるのに、それを友愛と性愛の二種類に区別しようとする風潮や、愛情とセックスを同一視する感覚というのが、私にとってはかなり不可解です。誰かを大事に思うとか、関係性を保つ努力をするとか、そういった行為に形から入る(=付き合う)というのが、かえって難しいことのように私には思えます。
しかし、以前から「いつか必ず子供が欲しい」という想いだけは明確にあり、それはつまり「遅かれ早かれ、いつかシングルマザーになるのだろう」と意識していたということですが、大学在学中の2013年春に予期せずしてひとつの命を自身のお腹に授かりました。このとき、当然私には子供の父親と入籍や同居を望む感情も動機もなかったのですが、産みたいと強く思いました。そうして、我が子へ“社会の当たり前”に当てはまることができない環境を強いるという現実に直面し、家族について考えることが切実に必要となったのです。
社会での気付き
昨今は、テレビや新聞などメディアの影響もあって、世間はシングルマザーに対して、一昔前に比べると随分優しいことは、確かでしょう。少なくとも、私は周囲の人々から、理解も協力もかなり得られ、あらゆる親切に与ることができています。この卒業制作の企画をプレゼンしたときも、「もうかなり理解は得られてるんじゃないの?あなたがこういうことをやらなければいけない理由って本当にあるの?」と言う先生が居たほどで、「もはや時代は“たかがシングルマザー”と言わんばかりなのかも…」と一時は私も思いました。私の場合、子供の父親との間に悲しい物語などもなく、親兄妹や友人からの協力や応援も非常に多く、一段と恵まれているのだから尚のことです。
しかし、母子手帳交付のために区役所に行けば申請書に〈夫〉という記入欄が当然のようにドカッと設けられているし、妊娠中には「子供にとって両親が揃っていることが幸せなのは当たり前だよ」とまだ産まれてもいない我が子に不幸のレッテルを貼られることもあり、親や親戚に、妊娠したこと・結婚せずに出産することを告げると“一応”“まずは”ショックを受けられました。特に妊娠中は、まだ目の前に子供がいる訳ではないため色々と言い易いのか、非常に狭く定義した家族像を押し付けようとする人たちの存在を実感する機会は沢山ありました。また、「シングルマザーは消去法の末に残された選択肢=可哀想」という思い込みや、「シングルマザーは何でも一人でやって、ひたすらに大変」というイメージも蔓延しているように思います。メディアの偏ったアプローチの仕方、および“可哀想路線”じゃないと発信することができない背景というのが影響しているのでしょう。
私たち家族に必要なこと
前項で、シングルマザーは可哀想とか苦労をするとか、そういった同情は偏見だというようなことを述べましたが、もちろん大変なことがないわけではありません。しかし、それは両親揃って育児をしようが同じことが言えるはずです。一人の人間を育てるということ、もっと言うと、子供が居ようが居まいが、家族という組織を運営すること自体容易なことではないし、また親戚や友人や社会といった多くの人たちが関わりながらやっていくということは、どんな家族でも同じことです。それなのに、妊娠中から私のことを気の毒がる人や、何度も「本当に大丈夫?」としきりに心配をしてくれる人がいました。正直、私からすると大丈夫か大丈夫じゃないかなんて分かるわけがありません(ていうか、あなたが大丈夫? 状態)。それでも、大丈夫だと思わないと大丈夫じゃないし、大丈夫だと思えるように物事を選んでいくのが私の役目だと思っています。そして、同情や心配はいくらもらっても使うことができないし、お腹も膨れません。例え、仮に私が本当に可哀想だったとしても、同情や心配は的外れな優しさと言わざるを得ません。
とはいえ「少しでも力になりたい」とか「心配で放っておけない」と真摯に思ってくれる支援者の存在は、実際に有り難いこともあります。ただ、当事者にとって本当に必要な支援や有り難い親切が何なのかということについて、支援者と当事者が話し合える土俵が整っていません。これはシングルマザーに限った話ではなく、マイノリティ当事者と支援者の間で非常に多いことのように思います。要するに、シングルマザーをはじめとする「マイノリティな家族であること」自体が問題なのではなく、本当に困ったときや助けが必要なときに「声をあげにくいこと」や「話が通じないこと」が問題なんです。支援者が前者を問題視することで、本当の問題に気付くことが難しくなったり、むしろ後者の問題を引き起こす原因になってしまったり、ということが、一当事者である私には容易に想像できます。
そこで、当事者に向けられる同情や過剰な心配が和らぎ、周りの人たちが構えることなく穏やかな気持ちでマイノリティ当事者を受け入れたり寄り添ったりするためにできることを考えていた私は、経験上、価値観がほぐれるためには新たな価値観に出会うことが最も有効であると思ったので、“家族観”という価値観を集めることにしました。それが、ここでもいくつかご紹介しようと考えている『Family?~家族について考える人たち~』という卒業制作本のためのインタビューです。まずは私自身の励みになり、そして周りの人にも丁寧に伝わる、そしてゆくゆくは私の知らないところで、私の知らない誰かも、何かに気付いてくれるような、考えるキッカケになるような、そんなものになったらいいなぁと思います。
それでは次回、リライトが間に合えば、早速ひとつめの“家族観”インタビューをお届けしたいですね(頑張ります)。お楽しみに!
(ヒラマツマユコ)
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