残念だけど、可能性はある
加えて、須藤が愛読書にあげている村上春樹のオマージュ的な表現も楽しい。所詮人真似のレベルに過ぎず、イタい素人芸とも言えるのだが、ただ単に表現の上っ面を真似するだけではなく、モチーフのレベルでなぞっているのだ。「僕」(この一人称も村上春樹っぽい)はマイアミを滞在している途中で、日本にいる恋人に電話をかける。
「シズコは元気?」
「相変わらずよ。ただ明日、私が新商品のプレゼンをやることになってしまったの。まだ会社でレポートをまとめているのよね」
「忙しいんだね。僕が代わってあげようか」
「そうしてくれたら、私が代わりに試合をしてあげるわ。こう見えて力強いの知っているでしょ」
「頼もしいね。しかし、今から飛行機に乗ってもギリギリ間に合わないかも」
「あら、残念。五分もあれば相手をタイタニック号のように沈めてあげたのに」
村上春樹の小説において電話のモチーフは、主人公が自分の行動を導く女性から神託とも言えるメッセージを受ける重要な線(ライン)として機能する。須藤元気はこのモチーフをうまくなぞりながら、「僕」が試合に向かうプレッシャーを乗り越える場面を描いている。村上春樹っぽさをよく研究していることが伺える部分だ。
惜しむらくは、高校卒業後からアメリカでのデビューまでのプロセスを本書がすっ飛ばしてしまっているところである。本書はアメリカ・デビューが決まった地点からはじまり、そこから過去を振り返るような時間の流れがある。現在の「僕」は、プロでの試合3戦を経験した23歳だ。その地点から高校入学時点、15歳までさかのぼる。しかし、密に描かれる高校時代はたった1年ぐらいだ。先輩からのシゴキに耐えるとすぐに23歳の地点に戻ってきてしまう。
その間の努力や挫折など色々あるだろうに、初の小説ではそこまで描く体力がなかったのか省略してしまっているのだ。村上春樹オマージュ芸よりも、須藤元気にしか書けないノンフィクショナルなものがあるだろうにもったいない。しかし、それは須藤にはまだまだ書けるものがある、という可能性を感じさせる残念さでもある。本書の表現を借りれば「今まで走ったことがなかったので、短い距離にもかかわらず途中で歩いたりもした」のが、本書の残念さと言えよう。
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