炎上による休載
休載に関して作者本人はTwitterでは、次のように述べました。
“モーニング・ツーで連載中のヒモザイルですが、22日発売の12月号をお休みさせていただきます。WEB上で公開した後、たくさんのご意見をいただきました。嫌な気持ちになった方には本当に申し訳ないと思っています。そして、連載を楽しみにしてくださっている方々、本当にごめんなさい。”
“本作は実際の出来事を元に描いていこうと考えていたので、皆様からの反響に向き合わずに創作を続けることはできないと判断しました。お休みさせていただきながら、今後について考えたいと思います。”
この休載が、作者本人の要望によるものなのか、それとも、WEB上での大炎上を見た雑誌の関係者が、これ以上の批判リスクを鑑み作者に休載の打診をしたのかは、この文面だけではわからないのでモヤモヤする部分もありますが、
・多くのクレームによって表現者が自主規制をすること
・休載の原因が、雑誌を購入した読者からの意見ではなく、無料のWEBで読んだ読者からの意見であったこと
・ネットの意見には、『ヒモザイル』批判ではなく、東村アキコバッシングが多数あったこと
などは、多くの問題を孕んでいます。
中には、「読者の批判を受け入れ、自主的に休載した作者は立派である」という意見や、「『ヒモザイル』休載に対して表現の自由を言うのはむしろ、「批判の自由」を阻害している」という意見もありましたが、はたしてそうなのでしょうか。
私は、一人の表現者の立場から、この「読者の批判を受け入れ、自主的に休載した作者は立派である」という意見は、なんだかすごく上から目線だなあと感じると同時に、非常に怖いことであると思いました。
私は、「表現をする」ということは、「表現に責任を持つこと」であり、「批判も当然に受け得るものである」と考えています。感情のある人間ですから、批判に対してショックを受けたり怒りを覚えることがあるのは当然ですが、「批判の自由」がなければ「表現の自由」は成立しないと思っています。
しかし、原稿料を貰って雑誌に連載されている漫画(仕事)が、雑誌を購入した読者(お金を出して文化を楽しむ人)のアンケートはがき意見などではなく、無料のWEBで読んだ読者(お金を出さずに文化を楽しむ人)からの意見によって休載に至ったということに対して、作者が休載したことを当然の対応であるとした上で「批判の自由」を挙げることは、暴力的であると感じました。
東村アキコ氏のように売れっ子の漫画家であれば、ひとつ仕事を辞めたくらいで生活に支障がでることはないかもしれませんし、沢山の連載のうち評判が悪いものを取りやめることは、ビジネス的に妥当な判断かもしれません。批判意見の多く出る漫画を描き続ければ、結果的に作者そのものの評判を下げ、彼女が抱えるその他の連載作品にも悪影響を及ぼしかねませんから、これはひとつのリスク回避です。
しかし一度に数本の連載を同時進行する東村アキコのような漫画家でなく、駆け出しの漫画家が始めたばかりの連載が「批判殺到」という理由で休載になったとしたらどうでしょう。出版社が「物議をかもしそうな表現をする新人を起用することはやめよう」と自主規制をかけるようなムードを高めるような「批判」のやり方は、新しい表現者の登場を妨げます。報道の自由の世界ランキングが急落する現在の日本においても望ましくないことであると考えます(漫画とジャーナリズムを一緒にするなという声も出そうですが)。
正直な話、「金は出さぬが口は出す」という人が増えれば、表現者が表現を続けることはよりいっそう困難なものになります。日本ではまだまだ、表現者に清貧と神秘性と天真爛漫さ(幼児性)、大雑把に言えば「山下清イズム」が求められることは少なくありませんが、どんな作品でもタダでは制作出来ませんし、表現者自身も食べ物を買って食べたり税金を払ったりしなければ生きてゆけません。表現者が正当な報酬を求めるのは、下世話な欲望でもなんでもなく、表現を続けるため、表現のクオリティーをあげるために必要なことなのです。
表現を批判する自由はあります。ですが、「作者が連載を休載したこと」に対して、「当然である」と溜飲を下げること、直接的な被害者の存在(ここでは、東村アシスタント男性たちの意思)が不明瞭な段階で、お金を払っていない多くの人の意見によって、お金を払って表現を楽しむファンが残念な気持ちになること、表現者が作品に関する批判とは関係ない人格バッシングなどを受けることなどは、「平等に見せかけた世間の底意地の悪い目」を感じてしまいます。