「アートだから」で許される問題なのか
さて今回の炎上は、丹羽良氏ではなく、むしろ彼を擁護した「渋家(シブハウス)」の齋藤氏が主役でした。詳細はtogetterの「丹羽良徳がギャラリーにデリヘル呼ぼうとして怒られたことについての反応」をご確認下さい。
今回の記事で私が問題視したいのは、現代アート展にデリヘルを呼ぶことそのものです。
ここ数年、風俗関連の書籍が多数出版され、風俗やその周辺の問題が可視化されたことで、論点整理が行われてきました。私は、セックスワークを語る際に、大きく分けて2つの論点を意識しなくてはならないと考えています。ひとつが社会の問題であり、もうひとつがセックスワークそのものの問題です。
前者は、例えば貧困や障害を理由としてセックスワークにしかたどり着くことが出来なかった人が存在している現状を改善するために、社会制度や支援を変えていくという、社会の側からのアプローチであり、後者はセックスワークの労働環境の改善や社会からの偏見の目をいかに解消していくかなど、セックスワーク側からのアプローチが主になります。このふたつは、どちらか一方ではなく、どちらも同時に押し進めていく必要があります。前者だけでは、セックスワークへのスティグマは消えませんし、後者だけではセックスワークに就いている人たちの困難を全て解消することは出来ません。
そして今回は後者の論点に着目すべき案件です。残念ながら風俗業界は社会から偏見の目に晒されています。なかには誇りをもって風俗を行い、外部に自らの職業を発信する風俗嬢もいますが、自分の職業について誰にも話さない/話せない風俗嬢がほとんどでしょう。げいまきまきさんも「SWへの従事を何人が知っているか」という質問に対しての答えが「平均で2人」であったこと、そして、その内訳は、同じ職場や職種(つまりセックスワーカー)だとツイートで明かされています。それだけ、風俗嬢であることを周囲に明かせないという現状があるわけです。
これを踏まえれば、「現代アート展にデリヘル嬢を呼ぶ」ことが、「晒し者にする」以外の何者でもないことは一目瞭然です。もしかしたら丹羽良氏は、「社会にはデリヘルという職業があり、それが以下に偏見の目に晒されているのか、アート展に呼ぶこと(あるいはそれによって話題となること)で暴露したい」という思惑があったのかもしれません。しかし、個人の尊厳を傷つけてまで、そうした行為を行う正当性があるようには私には思えない。
時折、「アートだから」という言葉が免罪符のように使われることがあります。表現の自由は尊重されるべきですし、アートにはアートの特殊性があるような気もします。しかし、だからといって、「アートだから」が全ての問題に通用するわけではありません。齋藤氏も一連のやり取りの中で、「アーティストって肩書きは『人権侵害します』という意味」だと呟いていました。あるいは、「『通り魔』を作家性にしているアーティストに『通り魔みたいだ』という批判は意味がない。(中止になったのは)(アートへの)リテラシーが低いヤツが来すぎたから、向こう(丹羽良氏)が引いてくれた」といった主旨のツイートもありました。
「引いてくれた」という言葉から読み取れるように、斎藤氏には「社会に対してアートは優位である、あるいは外側にいる」という価値観をお持ちのように感じます。しかし、言うまでもなくアーティストも私たち同様に社会の一員ですから、「アートだから」がどこまでも通用するわけでもない、と私は思っています。
さて、この案件、「アートだから」で許される問題なのでしょうか? 丹羽良氏の見解が出ることを望みます。
(門田ゲッツ)
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