ユリイカ『女子とエロ・小説篇』
最近読んだユリイカ7月号『女子とエロ・小説篇』(青土社)が、とても充実した内容で、面白かった。男性作家による【性欲のための性表現】しか存在しなかった頃から、女性の書き手が台頭する現在までの時代の変遷、表現としての性と実際のセックス観における男女の対比、社会での性の取り扱われ方などが多角的に特集されており、【女性にとってセックスとは何か】を考える、とてつもなく有意義な機会となった。
男と女の性の描き方には差異がある。かつて岩井志麻子氏の『チャイ・コイ』(中央公論新社)を読んで、その、ねっとりとしているのにからからに乾いている性愛の表現力に耽溺したものだが、渡辺淳一氏が単行本のあとがきにて、「男性作家は女性の性の奥深い実感を、女性作家は男性の狂おしいほどのセックスへの渇望と射精後の虚脱感など、いかに想像力が豊かでも、実感がない以上、書き難い」というようなことを書かれて、なるほどと膝を打つと同時に、その典型例として「主人公男性の細いペニスを称える表現は、巨根願望を持つ男には絶対に書けない」と断言された時には、この獰猛で切なくて美しい物語を前に、性器の大きさのみを象徴的に取り沙汰するあたりが、渡辺先生、どうしようもなくオスですね、と、呆れて大笑いした時のことを思い出す。
女性の書くセックス描写には、自意識、時代背景、環境などに紐づいた、著者個人の人生観が滲み出る。性欲のみでは括れない、いわば【生の表現】とも言うべきパーソナルなリアリティーが露呈するところに魅力がある。
時代と共に移りゆく女性観・セックス観
特に印象深かったのは、『R-18文学賞』の輩出した才女、窪美澄氏と山内マリコ氏の対談「ダウナーなルーザーのための小説」だ。1965年生まれの窪氏と1980年生まれの山内氏の二人は、同賞に応募した経緯、時代背景に基づいた男性観、女性の生き方、景気や経済と性および性表現の関係性などについて語り合う。
二十代で結婚し、出産・育児を経験した窪氏は、「セックスがセックスだけでは終わらないことを知っている」。エロスと出産と子育ては同軸線上でつながっているが、その経験のない若い女性の小説は【恋愛で完結するセックス描写】と【その先に起こること】を分離して描く風潮にある。そこで窪氏は、助産院を営む実家で暮らす男子高校生がコスプレセックスを好む人妻と不倫する物語『ミクマリ』を執筆・発表し、第八回『R-18文学賞』大賞を受賞する。
早々に結婚・出産を経験し、一段落ついたところで仕事に精を出す理想的な生き方について、「それができたのは自分がメインストリームから外れていたから」と、窪氏は述べる。当時はバブル隆盛期で、結婚を選択しないキャリアウーマンの数も軒並み増加の一途をたどり、二十代で結婚・出産する女性の方が「裏街道」。そんなアッパーな熱狂にノレない自分がいたと振り返る。
話題は、性愛と景気の関係性にも及ぶ。経済に余裕がある時代には男性作家によるロマン溢れる性愛小説が数多く存在したが、今やほとんど壊滅状態へと追い込まれている。熱と金に浮かれた男の性表現に取って代わって躍進したのが、女の子による女の子のためのリアリティー溢れるセックス描写だ。
その代表ともいえる話題作が、ファスト風土に浸食された地方都市に生まれ、暮らす、若い男女の諦観を、等身大のユーモラスな視点で描いた山内氏の短編集『ここは退屈迎えに来て』(幻冬社)である。山内氏は「セックスって実際の体験としてはけっこう間抜けなもんですよね。なのでセックスについて書こうとすると、ついそっちに目が向いちゃって色気がゼロになる」と述べる。また、リアルから逃げない視点には「女子にはもうファンタジーが残されていない」と説明する。