乱歩の描く「変態」、乱歩作品における「変=クィア」の特徴のひとつに、「孤独の肯定」があります。自身が椅子の内部に入って、それに腰掛ける女性に想いを馳せる『人間椅子』の容貌の醜い「椅子職人」、レンズや鏡への偏愛が高じて球形の鏡の中に籠った『鏡地獄』の「彼」、押絵の女性に見惚れるあまり自らも押絵に入ってしまった『押絵と旅する男』の「洋装の老人」をはじめ、乱歩の描く「変態」や、乱歩にインスパイアされた作家・作品の描く「変態」の欲望は、「社会的に承認されるマイノリティ」の枠からはこぼれ落ちてしまいそうですし、彼らはそもそも「マジョリティと何ら変わりなく社会に承認されること」など求めていないようにも見えます。
社会の一員としてではなく、椅子の中、鏡の中、押絵の中という自らが作り出した欲望の密室の中に自由を求める彼らの姿には、孤独の中で自己を肯定する力強さがあります。それは、まだまだ社会的に承認されているとは言い難い様々なマイノリティや、社会的に承認されることは難しそうな欲望を持ったマイノリティたちに勇気を与えます。
世の中には、社会的に承認されることがないような欲望を持ったマイノリティや、社会的に承認されることを望んでいる訳ではないマイノリティもいます。江戸川乱歩の作品や、乱歩にインスパイアされた作家、作品、それに、太平洋戦争後に大量に発行された大衆向け娯楽雑誌、通称カストリ雑誌に描かれたようなエロ・グロからは、「マイノリティはマジョリティ同様に変ではない(差別されてはいけない)」という範囲からこぼれ落ちる「変な」マイノリティがいることや、孤独の中で生きる人間の密やかな自己肯定の世界を覗き見ることができます。
「変」という漢字には、「かわる(今までと違った状態になる、改まる、移りかわる)」「かえる(今までと違ったようにする、改める)」「乱れる・乱す」「不思議」「普通でない」など、様々な意味がありますが、どれも決して悪い意味ではありません。「乱れる・乱す」は、悪い意味として用いられることが多いですが、それは「乱される側」の視点であるという前提があるので、“悪い意味”ではなく、“ある視点から見れば悪くもある意味”という見解が近いように思います。
「マイノリティはマジョリティ同様に変ではない」と表明し、認知を広める作品群に意義があるように、「“変”は“変”のままで、変(マイノリティ)で何が悪い?」という「ありのまま」を描いた作品だってマイノリティの表象のひとつなのであり、他の様々なコンセプトと同様に、「軽んじられるべきではない作品の構成要素」なのです。
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