HUFFINGTON POSTでの勝部元気さんの「少女への『声かけ写真展』という非道を許して良いのか?」という記事では、「小児性愛に対する問題意識もまだ一般に広がっておらず、その悪質性が認知されていない時代」という「小児性愛者=悪質、性犯罪者予備軍」とでも言うかのような記述や、「小児性愛者の暴走を抑止する必要がある」という見出し、着エロやJKビジネスなどの別の問題が小児性愛者によって引き起こされるかのような記述(着エロコンテンツの利用者やJKビジネスで回春する者をすべて小児性愛者と断定するのはあまりに横暴です)によって、小児性愛者(ペドファイル)への偏見や差別を増長させています。非難されるべきは、中学生男子のスカートめくりのような露悪的ホモソーシャルチキンレース的な主催者側の姿勢であり、小児性愛者そのものではないのです。
また、前述の勝部さんの記事では、今年1月に京都市立芸術大学の運営するギャラリー@KUA(アクア)で起きた、若手アーティストの「88の提案の実現に向けて」という企画のひとつであった「デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ」という項目への批判と関連づけ、「アートという名の人権侵害に警戒を強めるべき」「近年、公共の施設でもこのような人権侵害が相次いでいる」としていますが、実際に開催された『声かけ写真展』と、『アーティストがギャラリーにデリヘル嬢を呼ぼうとしたこと』は、別のものです。同列にして、いかにも関連があるかのように見立てることは雑な印象操作です。
「アートという名の人権侵害を防止しろ」「芸術家のフリーライドを許すな」という声は、今回の件だけでなく、近年インターネット上で高まってきているように思いますが、「表現の自由は差別を温存し得るから制限すべき」という発想の先にあるのは、同規格以外はコンベアからふるい落とす人間プラントのような世界です。
そもそも、「美しい」とか「洗練されている」とかは、拡大解釈すれば差別であり、成績下位者がいるから成績上位者がいて、オリンピックでメダルを取れない選手がいるから金メダルを取れる選手がいることと同じです。「みんな違ってみんな良い」の価値観のみを平等で正しいこととするなら、芸術だけでなく、文化なんて等しく滅ぶしかないのです。
私は、ゴーギャンの『ノアノア(かぐわしい)』という絵のモデルのタヒチの少女が、12歳でゴーギャンと結婚し、少女から感染した性病が原因でゴーギャンが死んだことを、「神聖で無垢なものに触れて死んだ男のロマン」というような観点から紹介した美術雑誌の記事を小学校6年生の時に読み、「なにが“かぐわしい”だ。ゴーギャンキモい死んで正解」と思いました。自分と同い年の少女に神聖さや無垢さを勝手になすりつけたあげくセックスするオッサンを美談やロマンとして語ることに気持ち悪さを覚え、それが、ジェンダーで読み解く美術批評に興味を持ったキッカケでした。
絵画も彫刻も、「まなざすもの=男性」「まなざされるもの=女性」という非対称な視線で発展した歴史があり、私はそこに異を唱えるために作品をつくったり、文章を書いています。ですが、差別的な視線を解析することと、差別的な視線を断罪し抹殺することは違います。ゴーギャンの『ノアノア』は、オリエンタリズムを孕んだ視点で描かれていますが、価値があるかないかはそれだけでは決まりません。「キモいと思うこと」と、「キモいと思うものの中にある価値」は別のものであり、「キモいと思うこと」と、「キモいと思うものを排除すること」は違います。私にそれを教えてくれたのは、ジェンダーで読み解く美術批評です。
どんなに正しく優れたイデオロギーであっても、それとは“別”の可能性を念頭に置くことが、美術に携わることだと思っています。美と法は別のもので、美と善も別のもの。「美とは何か?」、ある規範や価値観に対して様々なことを問いかける芸術は、時にピンポンダッシュのように、内側にいる人に外側から迷惑行為のようなアクションを起こすこともあります。それを不愉快に思う人がいることも当然ですし、現行の法に反していれば法によって裁かれます。だから、「芸術家が人権を侵害することはある、ただし法の元では裁かれる」というのが私の見解です。「法の下で裁かれたとしても芸術家が人権を侵害することは許されてはならない。芸術家が表現によって人権を侵害するのを予防しよう」ということを法側が発想することは理解できますが、「法に与しないものは美ではない、芸術ではない」というのは違います。美と法は別のものであり、美は法によって生まれるものではないからです。
「人権を侵害し得る芸術家は危険なので、美として評価するのをやめましょう。政治的に正しいものだけを美術と呼びましょう!」というような発想に与することこそ、美の堕落であり、「なにをするかわからない、世の中の役にもたたなそうなヤツが得をしたり目立とうとすることが許せない」という「アートフォビア」に与することですらあります。
ジェンダースタディーズ的な視点から美術を読み解くことと、ジェンダースタディーズ的な視点にそぐわない美術を抹消することは違います。ジェンダースタディーズ的な作品を守るためにも、そうでない作品を守ることは必要なのです。
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