messyではすでに何度か取り上げられている本ですが、湯山玲子・二村ヒトシ著『日本人はもうセックスしなくなるかもしれない』(幻冬舎)を読みました。
タイトルだけでなく、帯文でも「セックスは面倒くさい」「子どもを作る以外にセックスの意味などあるのだろうか?」と相当煽っている本書は、看板に偽りなくしょっぱなからお二方ともエンジン全開でした。
二村:コンテンツ愛が充実した人にとっては、現実のセックスや恋愛の方が貧しく、わざわざする価値なく感じられてしまうというのは男女ともにありますね。
湯山:若くて体もきれいな女の子たちは、この時代、不安をじっくり自分の中で一つひとつ解消する心の強さはなく、また、情報過多の時代にそんな時間もない。結果、手っ取り早い承認欲求が欲しくて、すぐにバカで性格がよくて、かわいい女の子という擬態に走る。そうすると、精神的にも支配、被支配の物語を作りやすいから、それに乗っかって、男はマウンティングすればいい。恋愛するには格好の相手ですよねぇ。
開始10ページ足らずで、フェミニストがあんまり言わない現代の日本の性の傾向をズバリと言い表しています。
現実のセックスや恋愛よりもコンテンツの方が充実していると捉える人が、少なくない人数、出てくるということは、性別二元論やロマンティックラブイデオロギーに準ずる「正しい」「普通の」恋愛の規範の特権性がなくなりつつあるということでもあり、個人的にはとても好ましく思っています。
もちろん「日本人がもうセックスしなくなる」ことを憂う人もいるわけでしょうが、「正しい」「普通の」恋愛の規範の特権性がなくなることは、特権の恩恵に興味がなく、むしろ正しい恋愛の特権性によって肩身の狭い思いをしてきた人間にはメリットです。また、「“正しさ”や“普通さ”に合わせることで自己を顧みずともインスタントに“幸せ”になれると信じてきた人たちは、ちょっと自分のことで悩んでみても良いんじゃないの?」という意地悪な視点からだけでなく、「“正しい”“普通の”という恋愛の規範が特権でなくなればなくなるほど、人間は自分個人に目を向けざるを得なくなる」という点においても良いことで、多様な実りをもたらす変化だと思うのです。
なにより、創造・想像が現実より劣るなんて理不尽な決めつけが弱まり、恋愛や性愛が過剰に人生の目的化や特権化されることなく人間の無限にある趣味のうちのひとつとなることは、ものをつくる人間の一人として本当に嬉しいのです。
一方でその反対側には、湯山さんの指摘する通り、不安をじっくり自分の中で一つひとつ解消することよりも、手っ取り早い承認欲求を求めて、男と女の支配と被支配の物語を安易に再生産する(最悪の場合メンヘラ化する)女性の増加という「憂うべき事態」が控えていることも目を背けられません。