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母性信仰由来の「自己犠牲の美化」に、私が憤りを覚える理由

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ナガコ再始動

ナガコ再始動

 私は、無私の精神で家族や子どもに献身する「母像」が嫌いだ。それは前回書いたように、世に美化された「良き嫁」「良き母」の型を懸命に踏襲した実の母親に対し、「演劇を見ているようで空々しい」と感じた子ども時代の印象に端を発する。

 母が「良き母」であろうと努力するほど、娘である私は母自身の人間性が分からなくなり、もどかしさを感じた。役割の重要性は理解できても、人間同士のコミュニケーションが深化しないため、母自身および母性への愛着が育たない。結果、母への感謝も尊敬もろくに抱かない冷たい娘として成長した私は、世に言う母性信仰も毛嫌いする。自分が母親になることを想像したり、他者に献身しようとする自分の感情に母性のようなエネルギーを見いだした際には、「気持ちが悪くて、吐きそうになる」のだ。

 それはいわゆる同族嫌悪なのだろうが、いくら母への愛着が育たなかったからといって、「吐きそうになる」ほど嫌悪することはないだろう。何が、そんなに気持ち悪いのか。本連載を通じて父母との関係性を少しずつ紐解くうちに、自己の問題の焦点が見えて来た。

中間管理職のプライド

 「良き嫁」であることに尽力した母は、祖父母や父の指示に甲斐甲斐しく従い、子どもたちにも「“みんなの言うことに”おとなしく従いなさい」と命じた。母の言動に、自身の意志は反映されない。子どもたちの意見も聞き入れない。そうしなければ到底こなし得ないタスクを抱えていた母の立ち位置を、ファミリー企業の組織図に当てはめてみると、祖父母が会長、父が社長、母は中間管理職の部長。子供はその部下となる。

 部長である母は、部下である子どもたちに「上の者の言うことを聞いてもらわないと、やっていられないんだよ、君。部長である私が君たち部下をしっかり管理できていないと上の者に思われたら、怒られるのは私なのだよ。我がままを言って私を困らせないでくれたまえ」といったような、中間管理職道を極めるぼやき台詞を口にした。そう言いたくもなる事情は分かるが、こちらは企業戦士ではなく、ただの娘である。

 私は役割のバイアスを外した母自身と、人間同士として交流したかったし、密着した関係性を築けないことがとても寂しかった。同時に「家族に隷従するばかりの母には、自分というものがない」と苛立った。「(自分が困るから)上の者に従え」と主張されても、「自分の意志はないくせに、困った時だけ自分を出して来るあたりが気に入らない」という理由で、まったく言うことを聞かない。それに私と家族ひとりひとりは、一対一の関係性が成立している。母が関与する余地はない。

 しかし、祖父母や父の命によって子どもを管理することが自分に与えられた仕事であると信じる母にとって、自分および仕事を無視して「上の者」と対等に付き合おうとする部下の態度は、部長としてのメンツを潰すような行為だったのだろう。母は大人しく管理されない子どもたちに対し「お家のためにこんなに一生懸命にやっているママを馬鹿にしている」と言ってよく泣いていた。

 どうやらプライドを傷付けてしまったようだが、こちらは特に馬鹿にしたわけではない。母の言葉を重視しなかっただけだ。なぜなら、「良き嫁」の演劇に無我夢中である母の言動には、母本来の自己が反映されにくいので、その人間性への愛着が子ども心に定着していないのだ。母の「中の人」との交流がないことには、尊重したくてもできない。

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林永子

1974年、東京都新宿区生まれ。武蔵野美術大学映像学科卒業後、映像制作会社に勤務。日本のMV監督の上映展プロデュースを経て、MVライターとして独立。以降、サロンイベント『スナック永子』主宰、映像作品の上映展、執筆、ストリーミングサイトの設立等を手がける。現在はコラムニストとしても活動中。初エッセイ集『女の解体 Nagako’s self contradiction』(サイゾー)を2016年3月に上梓。

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