インタビュー

模索される「新しい男らしさ」は、マッチョに回帰するのか。いま必要とされている長渕剛成分。/杉田俊介×西森路代【2】

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4月に『長渕剛論』(毎日新聞出版)を出した批評家・杉田俊介さんと、女性性・男性性に関する映画批評をmessyで連載しているライター・西森路代さんの「男らしさ」対談。「マッチョな男らしさ」を否定する先に「新しい男らしさ」は見つかるのか。全3回。

・否定形で語られる「男らしさ」から、「男らしくない男らしさ」の探求へ

西森 暴力的な作品を見て「なんかわかんないけどすごい」といった感想を持つ風潮がありますよね。私はその風潮に乗れないけれど、そういう気分が存在する理由みたいなものはなんとなくわかるんですよね。だからこそ、「その気分はなんだろう」と思って暴力が描かれた作品は全部見に行くようにしてるんです。そのことは日々起こる事件とまったく無関係にも思えなくて。

杉田 社会正義的な、PC(ポリティカルコレクトネス)としての正しさに対する息苦しさを感じている人は多いと思うんですね。『ズートピア』にはその辺りの両義性があると思います。あれは一つのリベラルユートピアの夢だと思うけど、ラディカルなものを根こそぎにしたディストピアでもある。ラストにみんなでダンスするシーンは、結構不気味でした。現実はもっと酷いんだ、とアメリカ社会は多分よく分かっていて、だからこそ、これまでの歴史が積み上げてきた人類の英知を大事にして、未来に向けてさらにリベラルな夢を育てていこうよ、という方法的な感じだと思うんです。完全なユートピアは実現不可能かもしれないけど、少しずつリベラルな世界を目指そうよ、と。PC的な政治性と大衆的な娯楽性を融合させることに、見事に成功している。

でも、日本の場合、アメリカに比べてはるかにPC的な意識が根付いていないから、『ズートピア』の世界はまさに空想にしか思えない。日本では、近代化すら十分に根付いてないのに近代批判(ポストモダン化)の意識が強い、としばしば言われますけど、PCが十分に根付いてないのにPC批判が先行しているから、『ズートピア』に対しても、もう一段階、ねじれた感情を持たざるを得ないのかなと。「SNSなんかで微妙な発言を少しでもすると、すぐにリベラルな人々が集まってきて、火だるまにされる」という被害者意識を抱えていて、そういう社会をどこか息苦しく思っているがゆえに、ある種の保守的な発言や愚直な暴力へ魅かれていく、ということもあるのでしょうか。そういう人々にとっては、『ズートピア』はきっとディストピアですよね。

西森 ある時、私にはちゃんと線引きができない発言に対して、「それはいけないことである」と断言している人がいたんですね。それを見たときに、良い/悪いの線引きを自分よりも知ってる人が、すごく権力を持っているように思えて。PCについて語られるようになって、「これは良い、これは悪い」っていう尺度が急にたくさん必要になったし、その尺度をちゃんと理解していかないと、置いていかれたような気分になるのではないかなと思ったんです。まあ、だからと言って、PCを無視しようって言ってるわけじゃないんです。私も人を傷つけるような発言はしないように、と思っています。ただ、どういう気持ちでPCが忌み嫌われるか、息苦しく感じるのかを、想像してみようと思って。だってもう、そこ考えないと身の危険すら感じるわけじゃないですか。

杉田 不思議なんだけど、マジョリティの人間は、社会構造的にはぜんぜん被害者じゃないのに、逆に被害者意識に染まりやすい。社会的弱者やマイノリティのせいで俺たちは不当に制限され、損していると。昨今の暴力映画がそうした「マジョリティの被害者意識」に変にシンクロしてしまうと、危うい面もあるのかもしれません。僕は障害者介助の仕事をしてきたから、「PC疲れ」「リベラル疲れ」は確かにある、というかリベラルってそもそも疲れるものなんだよ、と認めた上で、それでもユーモアや笑いを見失わないでいたいですね。そういう意味では、『アイアムアヒーロー』は、暴力と男性性の問題、PCと娯楽の問題などに、結構しっかりと向き合っている感じはしました。

たとえば『キャプテン・アメリカ』の場合も、ヒーローの正義が自明ではなくなったポストヒーロー的な時代に、どうやって新しい正義や秩序を見出すのか、という物語でした。キャプテン・アメリカって、じつは長渕にそっくりです。もともと体が貧弱で、女性にもてず、でも祖国の役に立ちたくて、肉体改造して、マッチョになり、でもどこか滑稽で……冗談と本気の区別がつかなくなるその時にこそ、真のキャプテン=ヒーローが誕生する、という感じ。そのねじれ方が面白い。長渕にも『Captain of the Ship』という曲がありました。彼はキャプテン・ジャパンなんです。

西森 私は『キャプテン・アメリカ』の中に出てくる「強者は生まれつき力が強く力に敬意を払わない、だが弱者は力の価値を知っている。そして哀れみも」ってセリフを聞いて、長渕と同時に清原のことを考えました。子供の頃から常に周囲の人より体が大きかった清原はキャプテン・アメリカと違って体格にコンプレックスはなかった。でも成績不振になって、2000年頃に初めて肉体改造をする。ただ、急激に鍛えたためにヒザを悪くしてしまった。もともと体格的に恵まれている、つまり力を持っている人は、その価値を意識するときが、なかなかないものなのかもしれないなと気づきました。これって、体格の面だけじゃなくて、力のある立場の人は、他人の置かれた立場を想像することも難しいのかもしれないし。

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杉田俊介

1975年生まれ。異性愛者の男性(暫定)。人の親。批評家。20代半ばから障害者介助をしてきたが、現在はお休み中。著書に『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』『長渕剛論』『宮崎駿論』など。

西森路代

ライター。1972年生まれ。大学卒業後、地方テレビ局のOLを経て上京。派遣、編集プロダクショ ン、ラジオディレクターを経てフリーランスライターに。アジアのエンターテイメントと女子、人気について主に執筆。共著に「女子会2.0」がある。また、 TBS RADIO 文化系トークラジオ Lifeにも出演している。

twitter:@mijiyooon

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