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「男女が互いの欠落を補完しあう」つがい説に異議を唱えたい、私の自己完結癖

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ナガコ再始動

ナガコ再始動

 時に男女は、自分には「ない」要素を持つ相手への「ないものねだり」としての恋愛、結婚、いわく「つがい化」を求めるとする説がある。

 そもそも人間は、自分には「ない・足りない」要素を持つ他者との関係性において、凹凸を補完しあいながら生きていく生物である。男女も、お互いの性格の一長一短、役割分担、精神的に求めるもの、現実的な生活や経済等の需要と供給を補完しあいながら、1つの関係性としての完成体を目指す。それが自然な欲求であると、同説は定義する。

 元より、精子と卵子の結合によって1つの生命を形成する人間は、どちらか一方のみでは誕生することさえできない。その生命の相関関係を社会生活にも反映させた共存共栄の方法論が、男女の「つがい化」であるならば、それは人間にとって極めて普遍的な自然現象であると解釈できるのかもしれない。

 しかし、私個人にとって、「つがい化」は、すんなりとは受け入れ難い不自然なシステムである。というのも、女性である私の精神の土壌には、男性性が満ち満ちているので、他者である男性の力を借り受ける必要性をあまり感じないのだ。

男女性の両方を持つ者

 無論、ヘテロセクシャルの女である私にとって男性は、恋愛、セックス、生殖活動において必要不可欠な存在ではある。男女には骨格や筋力の違いもあるので、自力では持てない重い荷物を男性が運んでくれた時や、率先して力仕事を引き受けてくれた時には、もちろん感謝する。が、精神面・生活面ともに「だいたいのことが、自力でなんとかなる、いや、なんとかするので大丈夫」。全自動的に、自己完結的な自力解決を選択する癖が、私にはある。

 男と女が結婚し、男が働いて金を稼ぎ、女が家事、育児を担当することがそれぞれの役割だと決められていた時代、その補完関係は男女および家族の生活を潤滑なものとする屋台骨として確かに機能していた。

 翻って現代は、必ずしもその関係性を築かなければ個々が幸福に生きられないということはない。経済的にも精神的にも自立している女性が、いわゆる「おひとりさま」の人生を満喫していたり。家事が得意な男性が、仕事も家事も自分のペースで行いたいので、敢えてパートナーを求めなかったり。人間個人が幸福に生きる選択肢が多様化されている現在だからこそ、男女一対一の「つがい化」のみが人間の正解ではないと捉える方が、自然ではないだろうか。

 私は生活の面で、養ってくれる誰かを必要としていない。精神面では、自己内にそこそこたくましい男性性を所持していると自認する。ゆえに他者男性に求めるものがさほどなく、「つがい化」も放棄してきた。私同様のケースに限らず、低下し続ける婚姻率のデータを見るにつけても、補完関係としての男女の「つがい化」にいまいち乗れないと考える方々は、少なくないのではないかと邪推する。

 要するに、役割が形骸化した今、いわゆる男らしさ・女らしさの偏りなく「男女性を両方持っている感覚」を持つ人間は、実のところ増えているのではないか。

 とりわけ女性は、政府によって「輝か“せられる”」という恩着せがましいスローガンのもと、「産め、増やせ、そして働け」と、かつては男女の役割が分担されていた社会活動を一手に担う重責を引き受けさせられている。そのオファーを了承し、嬉々として頑張る女性もいれば、果てしのない疲労と苦痛を抱え込む女性もいる。個人差はあるが、いずれも「女性が男女両性を所持する」状態への反応であることに変わりはない。

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林永子

1974年、東京都新宿区生まれ。武蔵野美術大学映像学科卒業後、映像制作会社に勤務。日本のMV監督の上映展プロデュースを経て、MVライターとして独立。以降、サロンイベント『スナック永子』主宰、映像作品の上映展、執筆、ストリーミングサイトの設立等を手がける。現在はコラムニストとしても活動中。初エッセイ集『女の解体 Nagako’s self contradiction』(サイゾー)を2016年3月に上梓。

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