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女らしさの窮屈にサヨウナラ。「あたりまえ」をあたりまえに思わない術を手に入れて

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Photo by Vladimir Pustovit from Flickr

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「私に勝手に期待をしないで」。モヤモヤが言葉になった

コギャルと受験勉強を両立させるストレスから20キロも太り「人生終わった感」満載だった私が出会ったのがフェミニズム。「これで人生やり直せそう……!」と希望を胸に、フェミニズムを勉強し始めたときにまず思ったことは「こんなにのめり込めて共感できる本が世の中にあるなんて知らなかった!」でした。その衝撃は今でも覚えています。当時読んだ本の内容を要約するとこんな感じになります。

性別が違うと、同じことをしてもその行為の受け止められ方や評価のされ方が違う。世の中には「男」は「主体的に行動すること」、「女」は「主体的に行動するひとをケアしサポートすること」を良しとする力が強く働いていて、逆のことをしようとすると少なからず抵抗にあう

当時読んだ本の内容を要約するとこんな感じになります。それまでなんだかモヤモヤと胸につかえていたことがすっきりと言語化されるどころか、なぜそんな事態が生じているのかまで書いてあるのだから、こんなに面白いことはありません。つまるところ私は、「自分が“女”だということだけで、自分を都合よく解釈されてしまうのが嫌だし、何かをすることをあたりまえに思われたり、勝手に期待されてしまうことが嫌」だったんだと、このとき気がつきました。これは、私にとって非常に大きな出来事でした。

「女らしさ」の窮屈

ほとんどの女性は、「男は男らしく、女は女らしく」を信じて疑わない人たちが「あたりまえ」に女性らしさを期待してきたとき、その「あたりまえ」を裏切るのが面倒だったり、失礼かなと思ったり、なんだか可哀想に思えてきたりして、不本意ながらも相手の期待通りに反応した、という経験があるのではないでしょうか。

先陣を切って歩かない。忍耐強く相手の話を聞き、別の提案をしない。既に知っていることを得意げに話す相手に、「へえ、なるほど、そうなんですか」とまるで初めて知ったかのように感心してみせることだって、「女らしさ」の期待を引き受けるうちのひとつと言えるでしょう。

世間一般の「女らしさ」というものは、誰かをケアしたりサポートしたりするような、従属的な性質をもちます。だから、自分らしく意思をもって主体的に動こうとする女性にとって、「女は女らしく」といった期待や押し付けは、どうしたって窮屈になりがちです。

そういった「女は女らしく」というような考え方は、漫画やテレビの登場人物などをロールモデルとして、自分でも気が付かないうちに内面化している場合も多いのでやっかいです。

私自身、高校時代はいつの間にか出来上がっていた自分なりの「可愛くてイケてる女の子像」を全力で演じて、ある意味自分に酔っていた時期がありました。

「可愛いくてキラキラしたものが好き、秋刀魚の塩焼き定食などではなくシーフードドリアなんかが好き、たまにあえての牛丼も食べる、もちろん華奢、適度に気が利き料理も上手、小難しいことは考えずお気楽でノー天気、今が楽しければいい、おバカ上等……!」みたいな。

並々ならぬ努力と根性でもってそんな自分でいたのに(細さをキープするために毎日早朝ウォーキングをしていたし)、当時付き合っていた彼がそれを当たり前のものとして受け止め、私のすごさを全然わかっていない、むしろ私のことを本当にバカだと思っていそうだということに気が付いたときに愕然としました。

「おバカな可愛い女」というのは、そもそもの前提として私の「ありたい姿」である「本当は賢く、モノを考える知的で能動的な人」(書くと若干アホっぽい)とは相いれません。よくよく考えてみると、彼に対して私が考えていることを全く言えないようになっていて、驚愕したことを覚えています。

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早川ゆり

1983年東京都生まれ。立教大学大学院社会学研究科博士課程前期課程修了。修士(社会学)取得。大学在学中にフェミニズムに出会い、東京大学の上野千鶴子ゼミの扉を叩く。以後約4年間「もぐり」でゼミに出席。現在は二児の母で、結婚や子育てにモヤったりモヤらなかったり奮闘中。夫は社会学者の阿部真大。

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