ゾーニングされていた萌えキャラを引っ張り出して炎上させる
何度も繰り返しになりますが、“萌えキャラバージョン”は、あくまでも鉄道むすめの企画用のデザインです。東京メトロ構内や車内に貼られたものでもない上に、従来のキャラクターがリニューアルされたわけでもありません。それは、『鉄道むすめ』の公式サイトを見ればすぐにわかることです。その文脈を無視して、「東京メトロのキャラクターという公共性の高いもの」が、「過度に性的で不適切」であるという誤解を拡散し続けることは、それこそ「適切」なのでしょうか。
ある表象を批判する時に、その特徴を実際よりも明らかに過剰に表現することは、その過剰な部分によって批判を先導することに他なりません。多くの人はとても優しいので、何かに傷つけられた誰かを助けたいと思ったり、傷ついている人の力になりたいと思います。ある表象を批判する時に、その特徴を実際よりも明らかに過剰に表現することは、そうした人たちの憤りを利用し、怒りを誘導することに他ならないのではないでしょうか。
多くの批判者が「少し調べればすぐわかること」すら調べず、「公共空間に置かれるものとしてふさわしくない」「公共交通機関の公式キャラクターが性的であることは許されてはならない」という論調で批判を続け、実際に数多くの苦情が寄せられたため、「鉄道むすめ版駅乃みちか」のスカートの表現は変更となりました。『鉄道むすめ』の他の鉄道キャラクターたちは、胸や股間の影もそのままですが、これらもすべて「性を感じさせない仕様」に変更する必要があるのでしょうか?
ある表象がもたらし得る効果について批判する場合には、「いつ・どこで・だれが・どのようにそれを使用したか」と言う部分が論点として必要不可欠であるにもかかわらず、そこを見ようともせず結論ありきの批判をぶつけることは、乱暴です。こうした乱暴なクレームを投げつけられて、メーカーが対応せざるを得なくなっている現在の状況は、全くもって嘆かわしいものです。
本来ならば、公共交通機関の公式キャラクターとしてではなく、適切にゾーニングされた『鉄道むすめ』という萌えコンテンツの中ででてきた「駅乃みちか」の表象が、一種のセックスアピールを孕む萌えであろうがそうではなかろうが、是非もないことなのです。
大事なことなので繰り返します。実際に東京メトロ駅構内や電車内に存在しているわけではない「鉄道むすめ版駅乃みちか」が性的な欲望をかき立てるような表象であろうがなかろうが、「鉄道むすめ版駅乃みちか」が誰かの性的欲望が一方的に表現されたキャラクターであろうがなかろうが、そんなことはどうでも良いことなのです。欲望をかき立てられる側の人間が、ヘテロ男性であろうがなかろうが、性別やセクシュアリティ問わずです。
露出度もほとんどなく、東京メトロの制服を着崩しているわけでもない「鉄道むすめ版駅乃みちか」に対する、「いろいろ性的でけしからん」という批判自体も、感情論や趣味判断が目立ちました。
陰影をつけ、衣服の中の身体の構造を少し浮き上がらせることによって立体的に描く技法そのものの否定や、実際でも多く存在するブレザーごしに胸の膨らみがわかる女性、内股の女性といった、女性身体の特徴そのもの悪しざまに言うこと。前者は表現者の表現を抑圧するものであり、後者は「女性身体であることそのものが性的であり、性的であることは良くない」という女性の抑圧に他なりません。
人体を描く技法には様々なものがあり、表現者の興味関心によっても、どの要素が重点的に描かれるか、あるいは、どのようにデフォルメされるかは異なります。
例えば、優れた彫刻作品を多く残したミケランジェロのデッサンは、陰影が多少破綻したり、奥行きの空間性が失われても、細部の骨や筋肉の構造まではっきりと把握できる、「身体の構造」を重点的に描いたものが多いです。
反対に、スフマート(輪郭なしに影だけで自然な立体感を表現する絵画技法)や空気遠近法を用いて豊かな奥行きと影によって浮かび上がる柔らかい身体の立体感を描き出すレオナルド・ダヴィンチのデッサンは、「身体が置かれた空間」を重点的に描いたものが多いです。
「衣類と身体は、デフォルメするのではなく、実際の人間が服を着用した時と同様に描くべきだ」というのは、イラストレーターの伊能津さんの個性や作風への批判でしかないのです。