性そのものを悪者にしてはいないか
「身体はこのように描くべきだ/描くべきではない」という、身体の規範を求める樣はまるで、西洋中世のキリスト教絵画における規範のようです。
中世キリスト教絵画では、イエスの養父であり、聖母マリアの婚約者・夫であるヨセフは、老人として描かれます。乳児のイエスと若いマリアの横で、ヨセフだけが老人として描かれるのは、「家父長制を自明のものとするためにヨセフは聖母子とともに描きたいが、若い男として描けばマリアの処女懐妊に疑いの目が向けられ得る(早い話が、若い男と女だとセックスしちゃいそうだから、知的だが枯れていそうな老人にしておこう)」というわけです。
また、聖母マリアの受胎告知のシーンの絵画においても、天使ガブリエルが持つ百合の花の雄しべを描くことは禁止されていました。そうです、「雄しべと雌しべって、どことなくセックスを連想しちゃわない?」というのが禁止の理由です(子供のからかいみたいな理由ですよね……)。
是が非でも性的に見えないように、性的妄想すらしないように、聖母マリアの絵画では、パートナーが老人化したり、植物の雄しべが消失したりしていたのです(あれ……、「鉄道むすめ版駅乃みちか」への苦情にも似たようなものが沢山……)。
「全身のポーズが妙にくねくねしていて性的であるので良くない」と言いますが、ひねりと反り、筋肉の緊張と弛緩は、身体を美しく魅せる基本技法であり、作者の技量や個性が発揮される部分です。そうした表現そのものが良くないとなれば、世界中の美術館などにある人物画や人物彫刻は滅びるしかなくなります。
「女性の身体はそのものがエロく卑猥なので、表現として不適切、表現すべきでない」とでもいうのであれば、それほど女性を侮辱した考えはありません。 他方で、男女問わず、身体がエロさや卑猥さ、セクシーさを孕みうることは事実です。人間だけに限らず、「だれも絶対に性的欲望を抱かないもの」など、この世に存在し得ないでしょう。それすら許されないのであれば、私たちは人間をはじめとしたあらゆるものを描くことができなくなり、目耳口手や性器をはじめ、全ての性的快感を味わい得る器官を潰さねばならなくなります。
公共空間に存在せず、ある程度ゾーニングされたコンテンツの中で発表され楽しまれていたものに対して、「公共空間に置かれるものとしてふさわしくない」「公共交通機関の公式キャラクターが性的であることは許されてはならない」という批判をするのは不適切です。
簡単にわかることすら調べず、そのことを指摘されても知らぬ存ぜぬを通すのであれば、それはもう、「嫌いだからバッシングする」「叩きたいから叩く」以上の根拠は存在せず、もはや、「オタクだから悪い。」「萌え絵だからキモい。」ということでしかありません。
ゾーニングされたコンテンツを楽しむオタクに対して、「萌え絵に喜ぶオタクそのものがキモい」という批判をすることは、オタク差別でしかありません。
「公共空間に提示されるものとして相応しいか、特定の人種や性別や宗教に対して差別的ではないか」を本当に考えるのであればまず、バックラッシュであるとかジェンダー後進国である、逆張りであるなどと言う前に、
●原典にあたって経緯を把握し情報を精査する冷静さ。
●感情論や差別意識に基づく決めつけでなく、過不足なく適切な批判を心がけること。
●他者の怒りに同調するのではなく、問題であると感じる、問題が起きた原因を俯瞰的に捉え、改善するための適切な方法を思考すること。
などが必要ではないでしょうか。
そして、そうした最低限に必要なリテラシーすら持たず、感情論や差別意識に基づく決めつけによって批判や抗議や弾圧を繰り返すことこそ、あらゆる差別主義者にとって最も都合の良い展開であることに、いい加減気付くべきではないのでしょうか。
最後になりますが、今回、「鉄道むすめ版駅乃みちか」は、まったく不当な理由で批判され、一部表現の改訂がされました。
改めて、「事実と異なるクレームには断固として立ち向かうことの重要性」と、「ある表象を批判する時に、その特徴を実際よりも明らかに過剰に表現することによって他者を誘導することの是非」が、問われる必要性を感じます。