カルチャー

女装に見えてしまう生田斗真演じる「女より女らしい」トランス女性、 『彼らが本気で編むときは、』は教育推奨作品にふさわしい?

【この記事のキーワード】

被差別者は怒りを抑えよという横暴なメッセージ

極めつきは、この手編みのおっぱいに由来される、編み物に込めたリンコの思いだ。

ひとつは、怒りを収めるためだと言うのだが、トランス女性は不当な差別を受けても、怒らない方が美しいとでも言いたいのだろうか?

はじめにこの話題が出てきたのは、カイの母親・ナオミがはじめて登場するシーンの後だ。スーパーで買い物をしているリンコとトモを見かけたナオミは、リンコをトランス女性あるいは女性装の男性だと見て、(余計な)心配をしてトモに「ああいう種類の人といっしょにいない方がいい」と、差別発言をする。リンコと親しくなっていたトモは怒り、手にしていた食器用洗剤をナオミにぶちまける。そんなトモに、編み物をして自分は怒りを収めるのだと、リンコは話す。

続いて、リンコが検査入院をするシーンで、編み物で怒りを収めよというメッセージが登場する。戸籍上の性別を「女性」に変更していないため、リンコは病院側から男性の相部屋を割り当てられる。不当な対応だと怒り、「人権侵害」と抗議するマキオを見て、トモは一目散にリンコのもとへ駆けていく。ベッドに横たわるリンコの元に、トモは編み物道具を持っていく。

これらのエピソードは「怒るより編み物を」という美徳のメッセージが込められているとしか受け取れなかった。ネガティブな話よりポジティブな話をしたほうが気持ちいいに決まっているけれど、そうできない状況に対して、不満を述べることなしに、改善などできない。差別を受ける側はヘラヘラ笑って下手に出ないといけないのかと、このメッセージにはとても憤った。

編み物をするもう一つの理由は、リンコが戸籍の性別を変えるためだと言う。

性別適合手術(Sex Reassingment Surgery:SRS)をすでに受けているリンコだが、なぜか戸籍は男性のまま。だが、ペニスを模した編み物が108個完成したら、戸籍変更の手続きを取るという。なぜなら「これ(ペニス)はあたしの煩悩だから」供養する必要があるということだ。それ以上の詳しい説明をされていないが、これでは、性別を移行することは煩悩だと荻上監督が解釈しているとしか理解できない。

性自認や性表現に揺らぎがある場合、男女ふたつの性別が基本とされる社会で生活を営むうえで、安定や安全を確保するために、性別(ジェンダー)を移行(トランス)しようとする人々がおり、自己実現とは言えないと思う。そうしたトランスジェンダーたちに対して、この映画は「煩悩」という誤解を映画のテーマとしているのだ。

推奨作品として広がる可能性の恐ろしさ

このような作品が、なんと渋谷区と区の教育委員会によって「ダイバーシティ&インクルージョン教育」(多様性と包摂)の一環として推奨作品とし、文部科学省からは〈教育上価値が高く、学校教育または社会教育に広く利用されることが適当〉として「教育映像等審査制度」の選定作品とされている。差別的ですらある表現をそのままにし、多様性など描かれていない本作が、教育にふさわしいとはどういうことなのだろうか。加えて本作は、人気俳優が主演で、様々な地域の大きな映画館で上映され、大勢の人たちの目にふれる可能性が高い。恐ろしい。

映画、小説、演劇、テレビドラマなどの文化は、自由に、その人それぞれのやり方で人間の在り方を掘り下げ、解釈することで、わたしたちに新しい世界の見方を提示してきた。もちろん、何が正しいのかと誠実に向き合い、作品を作り上げても、ある人にとっては受け入れがたいものになる可能性はある。本作の「多様性」の薄っぺらさは、それ以前の問題と感じた。ステレオタイプを描くことが問題なのではない。ステレオタイプをただ無自覚に描き、既存の性規範やトランスジェンダーを愚弄するような価値観をそのまま放置しているからだ。

公開前から本作については不安を抱いていた。「週刊朝日」での生田斗真へのインタビューの見出しに「生田斗真 LGBTの女性役に」と書かれていたのけれど、LGBT女性という存在はあり得ず、トランスジェンダーはもちろん、性的マイノリティに対する不勉強さがうかがえたからだ。

性的マイノリティの総称のように使われている「LGBT」という言葉だが、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル(LGB)は恋愛感情や性的欲求といった性的指向(セクシュアリティ)に関する言葉で、トランスジェンダー(T)だけは自分は社会においてどういった性としてありたいかという性自認や性表現(ジェンダー)に関するアイデンティティ、と異なる。レズビアンのトランスジェンダー女性、バイセクシュアルのトランスジェンダー女性はあり得ても、ゲイのトランスジェンダー女性というのはおかしい。

最近もっぱら流行している「LGBT」という言葉を使ったほうがキャッチーで、記事が読まれやすくなるという考えだろうと推測するが、明らかな誤謬を容認する、または知りもしない人々が作り、宣伝する本作の姿勢に疑念を持った。

実在のトランス女性を見ない荻上監督と生田斗真

最後にひとつ、生田斗真がリンコを演じた点について、書き加えておく。生田斗真の演技に賞賛が向けられているが、わたしには男性にしか見えなかった。少なくとも「中学時代に親からトランスジェンダーであることに理解が示され、SRSを終えている、三十前後のトランス女性」には見えなかった。

リンコと同世代だろう、トランス女性と公言しているモデル/タレントの椿姫彩菜や佐藤かよは十代のころから女性ホルモンの投与を受けていたそうで、それこそ「どう見ても女性」だ。佐藤は早いうちから親の理解を得ている点でリンコと共通する。もちろん、ホルモンの作用は個人差があり、骨格など生物学的男女の性差において変えようのないところもある。しかし、生田の演じるリンコは肩や胸板の筋肉が落ちておらず、SRSによって男性ホルモンの生成が止まり、女性ホルモンの投与を受けた身体には見えない。性別移行をした女性としての説得力に欠ける。
また、リンコが自転車に乗って「うぉー!」と低い声をあげてこぐシーンがあり、まったく演出意図がわからなかった。「オカマみたいな声になった」と嘲笑して言ったり、はるな愛がバラエティで低い声を出してみるようなネタ化されるキャラみたいな、「女より女らしい」トランス女性も元は男性だと見せようという意図ならば、失礼にもほどがある。

が、先述のとおりインタビューによると荻上監督らは〈美しい女性になり得る俳優を探し〉、〈でも、実際お会いしたら、すごく肩幅があって筋肉がモリモリしていて、歩き方も男だし、当然ですがどうみても男性〉だった生田に対し、〈みんなで試行錯誤しながら、女の子にしていくという作業をしました〉と言う。しかし作中では不思議なことに、カイの母親・ナオミに一目でトランス女性あるいは女性装の男性と見抜かれ、忌避されているという、ちぐはぐさが露呈してしまっている。

どうしても生田をトランス女性役に起用するのであれば、三十前後で性別移行を決意し、周りからは「男性が女装しているように見られる」という、社会に同化できないキャラクターとして描くなど、生田の見た目に則した内容にするべきだったのではないか。

あるいは、若いうちから親から理解を得て、一般になじむトランス女性を描くという脚本を重要視するならば、トランス女性である役者を起用するという選択もあったはずだ。歌手の中村中はテレビドラマや舞台で役者として高い評価を得ているし、一般な知名度は高くないが、舞台で活躍する高山のえみもいる。女性として社会に同化している見た目の役者がリンコを演じていれば、もっと見え方もちがったかもしれない(それでも、とってつけたような差別意識を剝きだすナオミの言動や病院の差別的な対応については、立て直さないと、単なるリンコを巡る人間関係や、母性信仰を飾るためのドラマとしてトランスジェンダーを利用しているとしか見えないことには、変わりがないのだけど)。

荻上監督は、『おとなスタイル』でのインタビューで〈偏見は絶対的にない!〉と断言しているが、偏見を拭うことなど可能か疑わしい。本稿で異議を書くわたしにも偏見はあるはずだ。いくら勉強を重ねても、「自分の知るトランスジェンダー像」とは異なる、様々な考えのトランスジェンダーがいるだろう。主演の生田斗真は公式HPでのコメントで〈性別適合手術が済んでいるかいないかがとても重要〉で〈手術も済んで、戸籍も女性に変えている人は、自信を持っている〉と言うが、では未手術で戸籍は男性のままのトランス女性の存在をどう考えているのだろう? 教育にふさわしい映画の看板を引き受けるのであれば、与えるのであれば、このような不寛容な姿勢こそ似つかわしくないのではないだろうか。
鈴木みのり

1 2 3

鈴木みのり

1982年高知県生まれ。集英社『週刊プレイボーイ』編集者にナンパされ、2012年より雑誌などに記事を寄稿しはじめる。2017年より『週刊金曜日』書評委員を担当。第50回ギャラクシー賞奨励賞受賞(上期)ドキュメンタリー番組に出演、企画・制作進行協力。利賀演劇人コンクール2016年奨励賞受賞作品に主演、衣装、演出協力などを担当。2012年よりタイ・バンコクでSRSを受けるMtFを取材中。(写真撮影:竹之内裕幸)

twitter:@chang_minori

[PR]
[PR]
LGBTを読みとく: クィア・スタディーズ入門 (ちくま新書1242)