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「寝た子を起こさない」性教育が招いた悲劇。思春期特有の揺れを志尊淳、栗原類ら若手が今、舞台で演じる理由

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 劇場へ足を運んだ観客と出演者だけが共有することができる、その場限りのエンターテインメント、舞台。まったく同じものは二度とはないからこそ、時に舞台では、ドラマや映画などの映像では踏み込めない大胆できわどい表現が可能です。

 過激な性描写や社会風刺など、舞台でしかできない刺激的な表現の中に身を置くことは、演じ手にとって大きな成長の糧となるもの。エモーショナルさが過剰になりがちな題材であっても、生々しさは抑えて問題提起することができるパフォーマンスの場でもあります。

 思春期の、性を自覚しだしたばかりの少年少女たちが大人からの一方的な抑圧によって悲劇を迎える「春のめざめ」も、そんなパフォーマンスが目の当たりにできる作品のひとつ。5月、KAAT神奈川芸術劇場で上演されたのを皮切りに、京都、福岡、兵庫で順次上演されています。大人へと成長する体を受け止めきれない子どもたち役に、舞台経験の浅い若手俳優の志尊淳大野いと栗原類らが体当たりで挑んでいます。

「春のめざめ」は、ドイツの劇作家F.ヴェデギントが、自身や級友たちの経験を基に20代だった1891年に執筆。しかしその内容のセンセーショナルさが問題視され、ベルリンで初演されたのは1906年になってからで、上演中止に追い込まれることもたびたびでした。初演から100年後の2006年にはブロードウェイでミュージカル化され、トニー賞で作品賞など8部門を受賞しています。日本では2009年、劇団四季が約1年半公演。演劇ファンであっても「春のめざめ」といえばミュージカルを連想してしまうことが大半ですが、ドイツ語圏では若手俳優の登竜門と位置づけられ、毎年数多く上演されています。

いつの時代も変わらない、思春期の揺れ

 物語の舞台は、ドイツのギムナジウム(中等教育機関)。そこで学ぶ10代半ばの少年少女たちの会話は、大半が異性と自分の体の変化について。優等生のメルヒオール(志尊)は、仲のよいモーリッツ(栗原)から、精通や性的な妄想がなぜ自分に起きるのがわからず眠るのが恐いと相談され、彼の要望で「子どもをこしらえる方法」について略図入りのメモを作ってあげます。

 背がどんどん伸びてすぐに服が小さくなり、母親を苦笑させているヴェントラ(大野)は、親のいいつけどおり貧しいひとへの訪問をかかさない無邪気な14歳。姉に赤ちゃんが生まれましたが、子どもがどうやってできるのかまだ知りません。

 大人なら誰でも知っている「それ」を知らされないことへの不満と好奇心を抱くと同時に、自分も「それ」に近づいていることに対する不安で揺れ動いている少年少女の言葉を、大人は真剣にとりあいません。どうして子どもができるのかとヴェントラに聞かれた母親は「変なことを考えて!」と娘を責めて、「わたしはなにも悪くないわ!」「わたしには責任が負えないわ」「ひとりの男のひとだけを心から愛するの。わかったでしょう」と言って逃げ、メルヒオールの母親は、息子たちがファウストを読んでいるのを見て「まだあなたには無理」ととがめた直後に「もう大きいんだから、物事の善し悪しを見極めないと」と平然と矛盾を並べ立てます。

 舞台のセットは客席以外の三方がガラスのような素材で囲まれただけで、その上の中空に通路を設置。ストレートプレイですが、思春期の不安定な精神状態を表すようなコンテンポラリーな振り付けのダンスが随所に挿入され、少年たちが自慰をするたび、ガラスには粘性のある白い塗料が何度も塗りたくられます。ガラスには観客の姿がいびつに映り込み、また劇場が小規模なため、まるで自分も物語の中に取り込まれてしまったような閉塞感。

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フィナンシェ西沢

新聞記者、雑誌編集者を経て、現在はお気楽な腰掛け派遣OL兼フリーライター。映画と舞台のパンフレット収集が唯一の趣味。

@westzawa1121

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