劇場へ足を運んだ観客と演じ手だけが共有することができる、その場限りのエンターテインメント、舞台。まったく同じものは二度とはないからこそ、時に舞台では、ドラマや映画などの映像では踏み込めない大胆できわどい表現が可能です。
ファンタジーのような目に見えない存在や明言されない感情を描くことは、写実性を提示することが可能な映像作品のほうが向いていると思われがちですが、現実と虚構の境目があいまいな世界観の描写こそ、舞台の真骨頂でもあります。同一のイメージを多数が共有できることが映像作品の魅力であるならば、自分の受けた印象や余韻を大切に抱えていられるのが舞台、ともいえるかもしれません。その楽しみ方は、読書に近いともいえるでしょう。
いまでも熱狂的ファンが多い芥川龍之介の作品を基にした舞台「羅生門」は、まさにそんな楽しみ方にぴったりの作品。『羅生門』『藪の中』『鼻』『蜘蛛の糸』の要素がモザイクアートのように散りばめられ、芥川賞の対象作のような高い純文学性とエンターテインメント要素が両立されていました。
“百鬼オペラ”を銘打った「羅生門」は、イスラエルを拠点に世界のコンテンポラリーダンスシーンで活躍しているクリエーターの、インバル・ピントとアブシャロム・ポラックが演出し、劇団「てがみ座」を主宰する長田育恵が脚本。芥川の代表作4作と芥川自身の人生を投影し、『羅生門』の下人と『藪の中』の多襄丸(たじょうまる)にあたる主人公を柄本佑、同じく『羅生門』で髪を抜かれる死んだ女と『藪の中』の真砂にあたる女性を満島ひかりが演じています。
いつとも知れぬ時代、嵐のなかを羅生門にやってきた下人は、死人の女の髪の抜く老婆(銀粉蝶)に遭遇しその行為をとがめます。老婆が逃げると死んだ女が起き上がり「変わらないね」と下人に告げ、彼は女から逃げるように、自分の記憶を探す旅に出ます。
誰が真実を語っているのか
時代設定は原作の平安時代ではなく、衣裳は洋装で、羅生門のセットも作りは簡素です。大道具は数こそ多いものの、プロセニアムアーチ(テレビのフレームのように舞台前面を額縁のように装飾する機構)の柄とともにファンシーで毒のある造形をしている以外はシンプル。舞台を彩るのはアンサンブルのダンサーたちで、時にはキノコやランプの妖精に扮し、コンテンポラリーな振り付けで、まるで絵本の世界に迷い込んだような美しさでした。
柄本は、文語体のセリフのささやくような小声の早口でも声がよく通り、なにより声がとてもさわやか。陰欝ではなくまだ青さの残る青年ぶりが、ファンシーな世界観ともはまっていたのが驚きでした。
旅の中で下人は、鼻に劣等感を抱く内供(田口浩正)やその小姓(小松和重)などさまざまな人に出会います。そのうちの3人連れの旅人は、殺人事件に出くわしていました。武士の武弘(吉沢亮)とその妻・真砂の夫婦が、盗賊の多襄丸により真砂が強姦され行方不明になり、武弘が殺された事件を目撃した旅人たちの証言は三者三様で、その話を聞くうちに下人の意識は多襄丸と同化し、悪夢に飲み込まれていきます。
真砂役の満島ひかりは、夫の前での多襄丸の蛮行に抵抗する声が可憐で、さすがの透明感! ……なのですが、強姦されたあとの赤いドレス姿は乱れ背中を露出した姿なのに色気は皆無で、心身を蹂躙された哀しみも、まったく感じられないのです。
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