結局、その夜は精神の薬が入った点滴袋をナースコール2回分使用した。夜が明けるころには夢子は身も心もよれよれになっていた。40歳は老け込んだ気分である。
心はもう、絶望的に満ちた老婆のそれであった。ほどなく看護助手の女性が体の清拭をしにやってきた。タオルはあったかくて気持ちよく、その女性は大変優しかった。貴重な若い人材の時間と労力を使って体を拭いてもらうなんて、自分はそんな価値のある人間じゃないのに。夢子は恐縮するばかりだ。
(私は一生このまま間抜けで、無力で、無能な存在として周りの手を煩わせないと生きていけないに違いない)
という自分に対する嘲笑と、若い医療スタッフに対する、
(ありがたいねぇ、こんなことさせて申し訳ないねぇ)
という気持ちが綯い交ぜになり、ますます頭の中が混乱する。看護助手さんに体を拭かれ、泣きながら彼女を拝みたいような気持になる夢子だった。
その日の午後、「さっそく立ってみましょう!」と言われた。身も心も介護老人になりきっていた夢子の心は抗議の声をあげた。
(わしにはそんな高度なこと、無理じゃわい……無理無理、絶対無理)
しかし、やってみたら立てた。これでカテーテルが無事抜けた。80㎝程度の高さからしばらく世界と対峙していた夢子だったが、立ったことで急に視点が変化した。それは夢子を戸惑わせた。
夢子の生命が、再生した。
朝、体を清拭してくれた看護助手が「わー、立ってるぅ♡」と夢子を見上げている。
さっきは若くて強くてたのもしく見えた彼女が、急に物理的に小さくて可愛らしい存在に思えた。そして自分が急に若返った気がした。
姿勢が悪い者は、よい者に比べて自信や自己肯定感に乏しいという調査結果があるらしい。視点の高さ、立つということが自分に与える自信は、夢子の想像を凌駕していた。
(やったー自分でシャワーが浴びれる! 体を拭いてもらわなくていい!)
点滴はまだついていたが、袋がぶら下がった棒をガラガラと押しながら自力でトイレにも行けるのだ。さきほどまでの弱気はどこへやら、鼻歌でも歌いたい気分だ。
ようやく立ったばかりの幼児が嬉しさを滲ませてどんどん歩いてゆく心持ちがわかる気がした。
(けど私は幼児じゃない。まぬけで無力で無能でもない。『希死念慮』って言葉も知ってて、自分の状態を看護師さんに伝えられたんだから!)
生命は破壊と再生を繰り返して持続していくものだという。夢子も手術と寝たきりいう破壊のプロセスを経て、今また立ち上がった。こいつの生命は今、再生したのかもしれない。