ダガタの現実
『ホドロフスキーのDUNE』を観た四日後、何となく気分で渋谷に行き、気の向くままにギャラリーや映画館を巡る。午前中は雨が降っていて、少し肌寒かったものの、午後は晴天に恵まれ、気温も上昇した。汗をかきながら雑踏を歩き、「この人ごみも白昼夢っぽい」、「この人たちも全員、誰かの夢の中で生きているのかな」と夢想しながら、ギャラリー、アツコバルーへ。
そこで観た『アントワーヌ・ダガタ「抗体」』展にて、悲鳴をあげたくなるような衝撃を受けた。壁を埋め尽くす膨大な量の写真には、麻薬中毒患者、売春婦、囚人、内戦、セックス、暴力、血といった、目を背けたくなる現実が映し出されている。
悲惨な状況を写実したのではない。社会より排除された人々の、しかし人間として生きる以上肉体の支配から逃れられない現実を持て余す、哀しくも痛ましい絶望の情感を、ダガタが引き出した。
その情感は、闇に覆われている。途轍もなく乾いている。憎しみに溢れている。セックスが、悲鳴に見える。裸体の男女から死臭が漂う。彼らは人間であることに抗っている。抵抗を諦めたような空虚な瞳の奥に、諦めなければならなかった彼らの人生を透かし見る。日々を破滅的にやり過ごすだけの生命の無力。殺伐とした現実。
生きるとは、一体、何なのか。人間の生命とは、あまりにも虚しくはないか。人間は、何をするために生まれた生命なのか。どうして彼らは、見ているだけで苦しくなる圧倒的な絶望を抱いたまま生きていられるのか。こうした解釈とともに彼らに同調し、心が引き裂かれるような哀しみに襲われる私は、傲慢だろうか。
戦争反対のシュプレヒコールが沸き起こる現在の日本は、かつてに比べて平和とは言い難いが、それでも、戦争や圧倒的な貧困を知らずに生まれ育ったこれまでの人生は平和そのものだった。教育を受け、仕事を得、人生を謳歌することを目的に生きる環境は整っていた。
そんな恵まれた国で生きてきた平和惚けした者が、生命を呪わしいものとして、あるいは無感情に受け止めざるを得なかった者の心情を、それなりに想像することはできても、同調することなどできない。しかし、容赦なく引きずり込まれてしまうのは、ダガタの写真の媒介力の成せる業である。
ダガタはインタビューにて自分の写真表現を「感染」と述べている。
『森山(大道)さん本人もおっしゃっていたけど、彼が社会と自分との距離(ギャップ)を撮ろうとし、世界と己との埋めようのないギャップを楽しんでいるのに対し、僕は不可能と知りつつも、そこにあえて入っていこうとする姿勢に違いがあるのだと思う。どちらかといえば世界に溶け込んでいく森山さんに対し、僕は自分自身を感染させていきたいと考えている、それが一番の違いだと思う。お互い、実現不可能だと知りつつその姿勢を保ち続けていることが美しいと思う』(アントワン・ダガタ ― ギャング・娼婦・ジャンキー・戦場…世界に自分を感染させる写真家インタビュー/TOCANAより引用)
ギャングや娼婦やジャンキーと、心身の交流を持つガタカの写真は、本人および被写体の魂を吸い上げ、世界の人々に感染させる。観ている者も写真と渾然一体となる。目を背けたくとも、ままならない。気付いた時には浸食されているのが感染である。
こうなったら、むしろ、世界や人間を知るために、自他の生命を思うために、凝視しなければならない。彼らに寄り添うダガタの信念と愛情を頼りに、闇をじっと見る。光を渇望する。憎しみに愛を思う。生と死を身近に感じる。自分のたった一つの持ち物は命だ。私は余計なものを持ちすぎる。ただひたすらに光として、何がなんでも愛として、人々に寄り添って生き抜くことを闇に誓う。