
(C)柴田英里
世の中に、
「親子関係がまったく面倒くさくない、またはなかった」
という人は、一体全体どのくらい存在するのであろうか?
「やたらめったら親を敬わなくてはいけない儒教」や「バッドエンド親子関係の基本中の基本であるオイディプス神話」をはじめ、古今東西、「模範的親子愛のススメ=親子愛がない・こじれることの恐ろしさ」というネタは、手をかえ品をかえ星の数ほど生産され続けている。
それはなぜか。それは、古来から、「絶対的愛と信頼に基づいた親子関係」なんて存在しなかったからだ。
願いと呪いの親子愛
子供にとって親は人生最初の命を左右し得る他者であり、親にとって子供は自分の意思や行為によってつくられた奇妙な他者である。
「命を左右し得る他者」には出来るだけ嫌われない方が子は安全であろうし、自己責任の産物である「奇妙な他者」を拒絶しかねると思う親も多いだろう。
親も子も、「なるべく排除したりされたりしない方が良いよね」という良心的な願いと、「逆に、排除してしまえば煩わしい思いをしなくて済むよね」という心情の間で葛藤し、「排除したりされたり」したものたちの実例に、「不利益被るのはマジ勘弁だわー」と怯え、「絶対的愛と信頼に基づいた親子関係という神話(教訓話)」をこさえたりしてきたのである。
そういうわけで、「親子愛」という言葉は、願いと呪いで出来ている。
とりわけ母子、もっと言うと母娘の関係は、「面倒くさい他人との関係ランキング」があれば上位を記録することが予想される。
そこには、現状では生物学的女性の身体(子宮)の中でしか胎児を育てられないことから来る身体への無限の責任感と、腹が出たり乳が出たりといった胎児の変化によって自らの身体が勝手に変容してしまうことへの不安などが、「母子一心同体感」とでもいうべき責任と不安と充実をもたらすこと。「産褥」「血褥」などといって女性身体を貶めることや、「痛みを少しでも和らげる」といった多くの人間にとって大変喜ばしいとされる医療行為が、出産医療においてのみ、「母親は子供のために痛みを感じろ」「母の子への愛情は痛みによってしかもたらされない」などという、人類が培ってきた医療行為自体を全否定するかのような、無痛分娩や和痛分娩へのバッシングが未だに確かに存在すること。それらが大きく関係するだろう。
1 2