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不倫は「なぜ」イケナイコトなのか? 文化が違えば観念も違う

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 文化人類学者の植島啓司による新書『官能教育: 私たちは愛とセックスをいかに教えられてきたか』(幻冬舎)には、日本社会では絶対に許されないであろう性愛やセックスの形式が数多く紹介されています。

 たとえば、「男が戦いに行くように女は愛人を持つ」というパートには、「南部エチオピアに住むボラナ族の社会ではほとんどすべての既婚女性には愛人がいる」という記述があります。

 なぜか現在の日本では既婚女性の不倫をテーマにしたドラマが複数放送されていますが、おそらくボラナ族の社会でこれらのドラマが放送されてもまったくウケないでしょう。日本社会において不倫は背徳的である、だからこそ複雑な恋模様を描くことができ「ドラマ」として成立するのですが、南部エチオピアではその前提が通用しないわけです。ボラナ族の女性は「愛人がいないと『愛人のいない女』『弱虫』と罵られることがある」そうですから、「愛人のいないモテない系女子の苦悩を描いたドラマ」ならば、ともすればウケるかもしれませんね。

 本書では、愛人や不倫が一夫一妻制のもとで非難される理由も示唆されています。一夫多妻制の社会においては、男性間のパワーバランスが男の性的価値に直結、権力や財産を持った男性が女性を独占し、下位の男性は女性と関係を結ぶことが難しくなります。不倫や愛人を公に認めてしまえばこうした不均衡を容認することになり、差別問題にもなりかねないわけですね。一夫一妻制の現代社会で偉い人の下半身問題がスキャンダル化するのも、こうした下位男性の嫉妬(偉い人で女を独占するな! 俺たちにもよこせ!)に起因する側面があるのでは。

 自分としては、偉い人の不倫セックスを羨ましいと感じることはなく、前述したように報道にはやや同情的な気持ちすらあります。ハプニング・バー通いを暴露されるのは恥ずかしいだろうなあ……とか。前回も欲望と恥ずかしさについて書きましたけれど、日常的に秘めている欲望が白日の下に曝されちゃうのは、自分ならどう考えても恥ずかしい。まあでも、人が恥ずかしがっている姿を見たい、という欲望もないわけではない(もちろん自分のそういう姿は見せたくない)。そして、「恥ずかしい自分を見てくれ!!」という欲望も世の中にはあるのでしょう。まとまりがつかなくなってきましたが、写真週刊誌の不倫系ゴシップは、「あんなに偉い人たちが、こんなに恥ずかしい欲望を隠している! そしてそれが明るみに出されて恥ずかしがっている!(のが面白いから見たい)」という読者の複雑かつ下世話な気持ちに寄り添っているのかもしれませんね。

 ■カエターノ・武野・コインブラ /80年代生まれ。福島県出身。日本のインターネット黎明期より日記サイト・ブログを運営し、とくに有名になることなく、現職(営業系)。本業では、自社商品の販売促進や販売データ分析に従事している。

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カエターノ・武野・コインブラ

80年代生まれ。福島県出身のライター。

@CaetanoTCoimbra