先日、寝ぼけ眼で見たテレビに綾野剛が出ていました。正確に言うと、綾野剛と小栗旬と重鎮・蜷川幸雄。『ボクらの時代』。
いつかの高嶋ちさ子が出ておふざけに終始していた娯楽の回と大違いで、9割方、マジ語り。芝居終わりの居酒屋のようだった『ボクらの時代』。誰も適当に流れず、皆、一家言を胸に秘めながら飲んで、行儀よく順番に語る。秩序ある感じも、高嶋ちさ子回と大違い。で、何で綾野剛か? というと、あの『情熱大陸』で傲慢不遜(今は思ってないです)に見えていた小栗旬が謙虚に見えるほど、出で立ちや振る舞いが、なんというか、いい言い方をすれば無頼? 一瞬、ものすごく勘違いしてる人かと思えるほどだった。
綾野剛をまともに見たのが初めてだったかもしれない。で、「こんな感じの人が人気なのか」と思い、もう一度最初から見直したら、ルックスのよい、真面目に芝居を愛する青年だった。さっきのは何だったのか? 途中から見たからなのか、自分が寝ぼけていたからかわからないが、“無頼風”は一見、難しい。でも、二度見させるほどの何かが無頼風にはあり、無難な人にはそれは無い。本当の無頼というのは、多分、蛭子能収さんのような人で、それはもう趣味の域になってくる(が、本物の無頼は何だかんだ言いながら必ず生き残れると思う)。「少々無頼、でも根はマジ」というのが、日本において一目置かれる存在の共通点なのではないか? そしてマジな舞台人も多い俳優部門では特に勝ち残れる要素が十分あると思う。
で、ここで満を持して登場するのが“なおはん”こと川島なお美。今回の主役。私は彼女のことを、敬意を込めて“なおはん”と呼ぶ(本人もブログで自称しているし)。
女子大生ブームの火付け役となった「きれいなお姉さんは好きですか?」を地でいくようなミスDJ時代から一転、『お笑いマンガ道場』のパネラーとして漫画のうまさとネタの巧みさを披露した後、時代劇の王道『水戸黄門』に出演。今までの自分をその都度打ち破る仕事の仕方、従来の文学を批判した織田作之助的。美人なのに『お笑いマンガ道場』という構図は、太宰の道化精神に薄く通じているかもしれない。
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