
(C)柴田英里
今年の夏話題になった、サルの自撮りにおける著作権問題。ピント、構図、表情、どれをとっても素晴らしい自撮りであったが、サルの自撮りに著作権は認められないそうだ。著作権は、「人間であると認められた人」にしか発生しないらしい。
九月の終わりに、短い会期とアクセスしやすいとはいえない場所での開催であるにも関わらず大盛況であった『反戦 来るべき戦争に抗うために』展に行ったのだが、私が会場に足を運んだ理由は、「自分が賛同できる試みにはきちんと足を運ばねばならない」という、まあわりとお真面目なものの他に、『反戦展』主催であり美術批評家の土屋誠一氏が『反戦展』の宣伝の一環(?)としてTwitterにアップしていた自撮りが気になったという不純(?)なものもあった。
土屋誠一氏の自撮りはすごい。なぜかといえば、シャッターをきることに自己決定権がある自撮り・セルフポートレートは、良くも悪くも「自分が演出したい自分」という視点から逃れ難いという問題があるのだけど、彼の自撮りには、そうした「自己演出性」がことごとく排除されているように見えたからだ。
具体的に言うと、ライティングや角度、表情や前髪のセットへのこだわりがまるで見受けられない。多くの人はインカメや鏡、自分の虚像に対して、何かしら意識するように思うが、それらが感じられない。ポーズをつけたショットもあるのだが、そのポーズからも、「自己演出性」が微塵にも感じられないのである。前出した「サルの自撮り」の方が、よほど「自撮り」という言葉が一般に示す意味に近い。はっきり言ってそれくらい、土屋氏の自撮りは意味を持たせたり意味をなくしたりといった「自己演出性」が抜け落ちた、『「他人の顔」を撮影した「自撮り」』とも言うべきものであったのである。
ネット上に溢れる「自撮り」は、「私は私を自分の意思で決定するという欲望」と「たくさんの人間に欲望されたいという欲望」が混じりあったものが大半だ。自分の顔という情報を不特定多数に晒すわけだから、その葛藤はしごく当然といえば当然である。
とりわけ女性は、男性よりも、「顔は評価されて当たり前」「顔の否定は人格の否定にもなり得る」という価値観と対峙して生きなければならないという歴史があったし、今現在もその価値観から自由になることは難しい。私は、性別関係なく、「眼差すことの暴力(欲望)/眼差されることの被暴力(搾取)」からは逃れられないと思っているが、「顔の否定=人格の否定」という単純な差別は絶対にあってはならないと思っている。
であるからこそ、「自撮り」という欲望、意味と無意味のゲームについて考えさせられるのだが、「私は私を自分の意思で決定するという欲望」と「たくさんの人間に欲望されたいという欲望」が混乱し、「とにかく私というお神輿を担いで下さい、とにかく」といったコンセプトしか見い出し辛い自撮りには、正直あまり興味がない。
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