性的なもの、とは
「芸術か芸術ではないか?」という問題は、メディアの「自称芸術家」問題だけではなく、美大生の多くが芸術の中にヒエラルキーを設けていることで、ろくでなし子逮捕事件と鷹野隆大作品撤去指示の件を分けて考えがちであるという問題をも浮き彫りにした。東京芸大で行われたシンポジウムは、参加は美大・芸大生優先の措置がとられたにも関わらず、会場に来た美大・芸大生は1割程度であった。
確かに、木村伊兵衛写真賞を取り、東京都写真美術館をはじめとした美術館でも多くの展示実績を持つ鷹野隆大さんに対して、芸術家としてのろくでなし子さんは有名ではなかった。だが、なし子さんの漫画や美術作品は、サブカルチャーの世界では有名だったのだ。意識的か無意識的かはさておいて、「芸術>サブカル」という、美大生の内面化したヒエラルキーがあったことは確かであろう。
そして、以前の記事 にも書いたが、日本の美術教育において、ジェンダー・セクシュアリティスタディーズからの視点が大きく欠落していることが、このヒエラルキーの形成に大きく関わる一因であることも付け加えなければならない。
ろくでなし子さんが鷹野隆大さんのように大きな芸術賞を取っていたり、あるいは、「由緒正しい」とされるような出自であれば、報道も、美大・芸大生の反応も違っていただろうし、もっと言えば、逮捕などされていなかったであろう。
例えば、ろくでなし子さんが、『福澤諭吉を高祖父の父(わかりやすく言うと5代前)に持つ福澤梨子(なしこ)』みたいな出自であったりしたら、彼女の表現は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、だがしかし、現在の日本において、女性は男性と同等の権利、つまりは“人”足り得ているのであろうか」などと、真面目な問題として教科書で取り上げられたり、「梨子氏の表現する“まんこ”、これは一万円札の俗語である“万券”“万札”の意味にも解釈可能であり、つまりは、紙幣となることである意味では形骸化した高祖父の父の思想を再考する試みである。」みたいな、当たっているような当たっていないようなよくわからないがとにかく仰々しい能書きとともに文化勲章なんかを貰っていたかもしれない。
私は、なし子さんの作品では、ガン○ムにまんこをつけた〈ガンダまん〉が印象的で、好きだ。
ガ○ダム、ロボットに乗って戦う少年はヒーローアニメの定番で、ロボットは少年が自らの意思であってもなくても、それに乗ることで絶大な力を発揮してしまう、「男性権力」の象徴であるという見方も出来る。
それにまんこをくっつけるということは、言葉の印象だけをとらえれば、「男性性を女性性によってハッキングする」とか、「男性社会から女性社会への転換」だとか、「男性性と女性性の融合、両性具有的な権力のあり方」みたいな、いくらでももっともらしく、そしていささか男女二元論に基づく女性の権利拡張に根ざし過ぎているコンセプトなのかと勘ぐってしまうかもしれない。
だが、その作品を直に観て、〈ガンダまん〉の「本当にどうしようもないくらいどうでもよくバカバカしいたたずまい(無論賛辞です!)」を目の当たりにしたら、そんなことを思う人はいないであろうと思った。
私は、ろくでなし子さんのこの作品から、「男性権力(男性器)」も「女性器(女性性や母性、メジャーなエロティシズム)」も、どちらも、どれも「どうでもよく」なり、私たちは男とか女とか、ヘテロセクシャルだとかそれ以外のセクシュアリティだとかから解放され、それぞれ個人の性、多様な1人の人間になるという在り方や、カタルシスを伴う笑いを感じた。
「まんこを性的なものからエロくないものに読み替える」。既存の性から解放されることも、性の在り方のひとつなのだ。
この世の全てのものは性と無縁にはなれないし、性と無縁になるという性の在り方だってある。全ての表現はポルノに成り得るだろう。
だからこそ、表現を規制してはならないと思うのだ。
そしてこれは、何が規制されるかわからない時代だからこそ、すべての表現者・鑑賞者にとって切実な問題だ。
つまりは、ろくでなし子を、表現者を“殺すな”と言うことだ。たとえ個人的に不愉快であっても、“正義”や“道徳”のためであっても、絶対に殺してはならないのだ。
■ 柴田英里(しばた・えり)/ 現代美術作家、文筆家。彫刻史において蔑ろにされてきた装飾性と、彫刻身体の攪乱と拡張をメインテーマに活動しています。Book Newsサイトにて『ケンタッキー・フランケンシュタイン博士の戦闘美少女研究室』を不定期で連載中。好きな肉は牛と馬、好きなエナジードリンクはオロナミンCとレッドブルです。Twitterアカウント@erishibata
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