文部科学省の調査によれば、2012年度にわいせつ行為でなんらかの処分を受けた教員の数は、186名になるという。すべての処分がニュースになったと仮定すると、視聴者はちょうど2日に1件はわいせつ教師の事件を目にしたことになる。換算してみたら、これはすごく多いんじゃないか、と思う。そうなってくるとニュースの受け手のほうも慣れっこになっていて「また変態教師か」だとか「またロリコン教師か」だとか、半分呆れながら受け流してしまうかもしれない。
1990年度に処分されたわいせつ教員は22名。20年間でおよそ9倍の教員が処分されるようになっている。教職と言えば、かつては「聖職」と思われてきた職業だけれど、今やそんなイメージのほうが持ちづらいのではないか。もちろん、自分の子供が通っている学校の先生が事件を起こしたら、その保護者は驚くだろうし、不安にもなるだろうけれど、多くの人は「教師もまた普通の人間だ」と考えていると思う。普通の人間の集合だから、ロリコンもいるし、変態が混じっていてもおかしくない、と。
個人的には、「教員」という職業のせいで殊更非難されるのは、ちょっと不公平なのではないか、とさえ考えることもあった。わいせつは、許されない犯罪行為ではある。しかし、同じ変態でも教員とタクシー運転手じゃ、扱われ方が違う。教員だから大きくニュースにされてしまって、それはある種不幸だよね、と。
しかし、こういう認識を改めざるを得なくなったのは『スクールセクハラ: なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか』(幻冬舎)を読んでからだ。著者の池谷孝司は、共同通信のベテラン記者。本書は彼が「教師によるわいせつ犯罪(スクールセクハラ)」に関する10年以上の取材内容をまとめたものである。
被害者の悲痛な声、あるいは加害者の性格の歪みが伝えられると同時に、教育委員会や学校の隠蔽体質など様々な問題が指摘されているが、本書はスクールセクハラを「権力の問題」として取り扱う。「スクールセクハラ」という言葉を単純に解釈すれば「学校でおこる性的な嫌がらせ」だが、その実情は教師という立場を利用した性的なパワーハラスメントなのだ。
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