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西野カナ同様、平安時代の貴族たちは会いたくて会いたくて震えていた

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『with LOVE』SME

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 こういう芸能ゴシップを扱うサイトでコラムを書いていながら大変お恥ずかしい話なのですけれども、私、ごく最近になって西野カナさんの歌を初めて聴いたんです。それも、2010年の「会いたくて 会いたくて」を。「会いたくて会いたくて震える」という有名なフレーズだけ知ってたのですが、ふとした思いつきで「一体どういう曲なのか?」とYoutubeで検索したのですね。

 それで、すごく驚いてしまったのですよ。うわ、なにこれ、めっちゃくちゃ良い曲じゃないか、と。

 リリースから4年近く、このヒット曲を聴く機会を回避し続けていた自分の時代遅れぶりを反省しつつ、それから楽曲を即iTunesでダウンロードして、来る日も来る日も「会いたくて 会いたくて」を聴いている今日この頃です。2014年に「会いたくて 会いたくて」を聴きまくっているアラサー男性(私)って、端から見たら相当気持ち悪い存在であることは承知しております。

 で、本日は西野カナが書く歌詞について考えてみたいのです。

西野カナは「ギャルの心の代弁者」なのか?

 彼女の歌詞に関しては、ケータイ小説的なギャルの内向性を表現している、だから現代の若い女性の心を掴むのだ、しかも固有名詞が排除されているので、地方都市のマイルドヤンキーにも渋谷の女子高生にもウケるのだ、という分析がすでになされています。

 その一方で、単調だとか稚拙だとか散々な評価も受けています。その低評価は、西野カナリスナーへの非難にもつながっていて「こんなペラい歌詞で感動している女の子は、レベルが低い」と上から目線で彼女らを軽んじる声はネット上にたくさんありますね。「こんな歌詞を受け入れられてしまう現代の女の子の心は昔と比べて荒廃してるんじゃないか」、とかね。

 しかし、果たして西野カナの歌詞はそんなに「現代的」なんでしょうか。私は、この点にすごく疑問を思っています。西野カナみたいに「会いたい」という気持ちを直球で表現する人たちは、大昔から存在していると思うのです。

平安時代の歌人も「会いたかった」

 ここで現存する日本最古の和歌集である『万葉集』を紐解いてみましょう。『万葉集』に掲載されている約4500首のうち、実に7割が恋愛をテーマに詠まれた歌で、ビックリするぐらい西野カナっぽい内容のものが含まれているのです。たとえば、作者未詳のこの歌(カッコ内は私による現代語訳です)。

早行きて いつしか君を 相見むと 思ひし心 今ぞなぎぬる
(早く出かけて行って、どうか早くあなたに会いたいと思っていた心、今あなたに会ってみたら落ち着きました)

 さらには、こちら。

君は来ず 吾れは故なみ 立つ波の しくしくわびし かくて来じとや 
(あなたがこないと私の生きている理由がないでしょう。波がやってくるように寂しい気持ちになってしまいます。それでも来ないというのですか?)

 最後に、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)のものを。これはほとんど「もっと…」(西野カナの7枚目のシングル曲)の世界。

恋ひ恋ひて 逢へる時だに 愛しき 言尽してよ 長くと思はば
(とても強く思っているのだから、会っている時ぐらいは愛の言葉を尽くしてください。長く付き合いたいと思っているなら)

 「もっと愛の言葉を聞かせてよ私だけに♪」と切なげな表情で歌うカナやんと、大伴坂上郎女さん、タイムスリップして出会えたならがっちり握手できそうな気がします。

 以上で引用したものはいずれも「女歌」と呼ばれるもので、女性の心情を表した和歌だと言われています。古い言葉で書かれているため高尚な雰囲気が醸し出されていますが、直球で「会いたい」を表現していますよね。また、『万葉集』では男性の側も西野カナになっています。柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が詠んだというこの歌なんか、まさに「Sakura,I love you?」。

忘るやと 物語りして 心遣り 過ぐせど過ぎず なほ恋ひにけり
(あなたのことを忘れようと思って雑談をしてやり過ごそうとしたけれど、無理でした。まだ愛しいと思っています)

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カエターノ・武野・コインブラ

80年代生まれ。福島県出身のライター。

@CaetanoTCoimbra