純真無垢かつ包容力のある女、という幻想
最新の『LARME』013号の表紙にある、【媚びず、自由に生きる女の子の中に常に存在している イノセントからくる「ブルー」な感覚】というコピーからもわかるように、『LARME』はアンニュイ(倦怠感)全開だ。
ちなみに、『姉ageha』におけるコンテンツとしての「女の子の憂鬱」の背景には「母性信仰」が強く、『LARME』のほうには「イノセント信仰」の成分が多く含まれているように思う。
しかし現実を生きる私たちが、「全てを受け入れる豊かな母」になることも、「無垢で純真な子供」であったことも、おそらくないだろう。それらはどちらもフィクションでしかない。だが、「母性」と「イノセント」というフィクションは、女児向けアニメの主人公少女にすら執拗に求められる厄介なものである。だからこそ、フィクションと現実の狭間で、「女の子の憂鬱」というコンテンツが出来上がるのかもしれないが、憂鬱なだけでは、問題は何も解決しない。
女性はいつだってアンニュイな生き物で、神秘的で、ヒステリックかつ無垢だとでもいうのだろうか。それとも、女性の憤りや悲しみや怒りは、現実の中では解消法がないのだろうか。そんなもの、『ヴァージン•スーサイズ』くらいで勘弁してほしい。その幻想は、やはり、「異性愛神話」にとって、都合良く機能してしまうからだ。
個人の趣味嗜好の範疇でどんな幻想を抱くのも自由であるが、それが社会生活を送る上での生き辛さや抑圧になってはならない。
一部の女性誌のアンニュイブームや、コンテンツとしての「女の子の憂鬱」の充実によって、社会問題を個人の憂鬱の問題に置き換えたり、社会問題なんて存在しないかのようにすることは、女性の貧困問題などを悪化させ、いずれは女性誌の売り上げ低迷の一因になるであろう(もうなっているかもしれないけれど)。
私は、「女の子の憂鬱」にうんざりしている。
女性だけの話ではない。私たちは、憂鬱であるからこそ、思考停止に陥ってはならないし、思考停止になることの方が危険なのだ。
それはさておき、『LARME』が「脂肪溶解注射」のことを「小顔注射」と表記していることは、ネーミングをライトにすることで美容整形への抵抗をなくす(つまり、美容整形は、やっぱり後ろ暗いものであるという認識がある)効果を担っていそうで、非常にモヤモヤする。
■ 柴田英里(しばた・えり)/ 現代美術作家、文筆家。彫刻史において蔑ろにされてきた装飾性と、彫刻身体の攪乱と拡張をメインテーマに活動しています。Book Newsサイトにて『ケンタッキー・フランケンシュタイン博士の戦闘美少女研究室』を不定期で連載中。好きな肉は牛と馬、好きなエナジードリンクはオロナミンCとレッドブルです。Twitterアカウント@erishibata
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