昨年、西野カナの歌詞と『万葉集』の恋愛歌とを比較する記事を書きましたけれど(記事中『万葉集』を平安時代のものとして扱っていますが、正しくは奈良時代です。コメントでご指摘いただき気づきました)、過去の歴史を振り返ると、今の自分たちの生活がまた違った角度から反省できる、ということがあります。『やまとなでしこの性愛史 古代から近代へ』(ミネルヴァ書房)という本もそうした気づきを与えてくれる興味深い一冊です。
著者の和田好子は、1929年生まれ、ちょうど私のおばあさんぐらいの年代。戦前に教育を受け、現代のように自由恋愛が許されなかった時代に青春を過ごした最後の世代の女性が、古典文学や歴史の教養を生かして、古代から現代に至るまでの性愛の歴史を振り返る内容です。学術書スタイルで書かれておらず、急に著者の推測や想像が入り込むのでどこまで分析に妥当性があるかは全然わからないものの、逆にそれが自由な歴史評価を生んでいるようで面白い。
前述の西野カナに関する記事にはこんなコメントが寄せられています。「万葉の時代はわかりませんが、平安貴族の女性は『親が望ましい婿を得る』ための道具に過ぎず、それがいやなら出家するしかない時代ではなかったでしょうか」。このコメントにあるように、貴族の女性が政略のための道具として扱われていたというイメージは根強くあると思います。私も、藤原道長が自分の娘を権力者と結婚させて自らの政治力を高めた、と授業で習った覚えがあります。
本書もそうした史実を否定していませんが、“女性はただ単に男性の道具として生きていたわけではない”と著者は言います。
良家の娘と懇ろになれば、男性を経済的な援助や出世の後押しを得られる。その恩恵を得たい男性はいっぱいいたので、男同士は競いながら女性に熱烈なアプローチをかけます。女性が気持ち良くなるような詩歌を送り、もちろん肉体的な奉仕もする。女性側が気に入らなければ男性は出世できないわけですから、恋愛のイニシアチヴは女性にあったのだ、と見方の転換を促すのです。
もちろん、これは貴族の限られた世界の話。しかし同時に、一般民衆の世界における女性の存在感の強さをも本書は教えてくれます。農民の生活においては、女性の労働力が必要不可欠であり、また、女性が従事していた機織などの手工業による収入も家計にとって大変ありがたいものでした。男女の経済力があまり変わらなかったため、当時の女性は自立した存在だったと言います。
1 2