不義理者や、集団の性質から逸脱した者は、時として制裁を受ける運命(というか、制裁したい欲望を持つ者たちによって犠牲者に選ばれる)をたどるかもしれませんが、こうした状況を注意深く観察すると、糾弾者は集団にとって不利益な逸脱を取り締まりたいのではなく、単に逸脱者を制裁したい、「便乗して(自分は一切の責任を追わず)誰かを攻撃したい」という欲望が明け透けに見えることがあります。
その際、最も都合が良い正義という名の制裁のための言葉は、「倫理」や「道徳」であったりします。「お前は倫理的、道徳的ではないから悪だ」という理屈は、一見もっともらしくみえますが、そもそもの前提に、「倫理」や「道徳」の質や、内容、誰のためのものであるか、などが問われなければならないはずなのです。ですが、どうやら、この一番肝心な問題は、非常にしばしば不問にされてしまいます。倫理道徳の本質を棚上げにして下される制裁は「便乗して(自分は一切の責任を追わず)誰かを攻撃したい」行為そのものであることの証明であり、不当な暴力以外のなにものでもありませんが、責任と共感によって結束し暴徒となった状態の「正義」には、何を言っても伝わらないかもしれません。
「天の邪鬼」とか、「人と人が共感しあう温もりやしあわせがわからない冷血でかわいそうな人」などという批判は想定に入っていますし、そのような観点から見れば、実際に私は天の邪鬼で冷血かもしれません。ですが、私は人々が「共感しか心の拠り所がない」「誰かと同じだということでしか、自分を肯定できない」という状況に陥ることこそが最大の問題だと思っています。
そんな中、今年一番天の邪鬼で冷血な不義理者にとって心地よい読書体験となったのは、小泉義之『ドゥルーズと狂気』(河出書房新社)でした。「狂気」という言葉のそれ自体にアレルギー的な嫌悪感を感じる方にこそ、ぜひ読んで欲しい一冊です。
難解な本に見えがちで、事実難解でもあるのですが、それ以上に、圧倒的に、考えること、責任と共感を捨て置いて自分•社会とはなにか問い直すことについて、爽快に書かれています(ですます調の講義形式なので、論文に慣れていなくても読みやすい本でもあります)。
年末年始の祝祭に便乗して騒ぎつつ、「責任と共感」「倫理と道徳」について、改めてゆったり考えてみるのも良いかもしれません。
■ 柴田英里(しばた・えり)/ 現代美術作家、文筆家。彫刻史において蔑ろにされてきた装飾性と、彫刻身体の攪乱と拡張をメインテーマに活動しています。Book Newsサイトにて『ケンタッキー・フランケンシュタイン博士の戦闘美少女研究室』を不定期で連載中。好きな肉は牛と馬、好きなエナジードリンクはオロナミンCとレッドブルです。Twitterアカウント@erishibata
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