主人公は、若い頃に一度、公募展で賞を取ったきり、その後鳴かず飛ばずで千葉の小さな町で絵画教室の先生をやりながら暮らしている女性画家(40代)。元ダンナは、年上の才能ある現代画家。16歳になる娘は東京で駆け出しのアイドルとして頑張ってキラキラしている。主人公は元ダンナの活躍に嫉妬したり、娘のキラキラ感にプレッシャーを感じたりして、全然絵が描けなくなっている。
彼女のささやかな癒しは、娘が通っていた塾に勤める無口な年下の男(ちょうど昨年ヒットした『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』における斎藤工の役みたいに、自己主張は薄いけど、抑圧されている女性を受け止めてくれる都合の良い男)……って、なんか、よくある話だと思いません?
そう、話としてもペラいんですよ。さらに情報量もスカスカだからペラい話が余計にペラく見える。例えば元ダンナの活躍ぶりにしても、「今や海外でも名を知られるアーティストとなった」という一言で説得力を持たせようとしているんですけど、これ「欧米では○○するのが当然」、「北欧では全員フリーセックスしている」ぐらいの説得力しかないから!
そのペラさも押切先生の持ち味だとは思うのですが、本人は『上手いこと書いてる』と思ってるだろうな~というドヤァな描写のなかに、妙なものが混じっているのも特徴的。例えば、インターネットを利用して主人公が元ダンナの作品をチェックするシーン。「じれったいほどのんびりした通信環境の中、古いスクリーン上へ江藤の絵画が徐々に姿を現していく」って、光景はわかるけど、それ2002年ぐらいのインターネットっぽすぎる! いくら千葉の小さな町でも、もうちょっと速い回線きてるよ!
はっ! 気がつくと「悪口はそこまでだ!」と言っていた自分も押切先生を叩きかねない心境ですが、それでも私は押切先生の本が大好きです。第1著作である『モデル失格 幸せになるためのアティチュード』(小学館)にせよ、前作にせよ、書いている本人のメンタリティが色濃く反映された私的な内容は、彼女が「押切もえ」というタレントだからこそ、とても面白く読めるものです。「自分はドン底まで落ちないと成長できないタイプ」と語る彼女の主人公もドン底まで落ちて、根性で這い上がっていく。そのプロセスには、実体験からくるリアリティがある。
今回の作品も主人公が「人に認められたい」、「良い絵が描きたい」という承認欲求で苛まれながら、ドン底まで落ちています。しかし、今回は這い上がり系ではない! これが大きな驚きでした。ただし、「周囲の評価なんか気にしないで、自分の好きな絵を描くのが幸せ!」というありきたりな着地点ではある。これまでの先生が「評価されるためならどんな苦しいこともやります!」と若手芸人みたいな貪欲さを持っていたのに比べると、ずいぶん変わってしまったんじゃないか、と思ったわけです。
もしかして押切先生は、弛まぬ自己啓発と鍛錬の日々に疲れてしまったの……? と私は今ものすごく心配しています。心配のあまり、小説を読み終えて、ダッシュで本屋に行って『AneCan』1月号(小学館)をチェックしちゃいましたもん。すると中身は、表紙でドレス姿を披露している不動の絶対エース、蛯原友里さんと、高垣麗子さんのお姿ばかり。彼女らと並んでトップ3の一角を担っていたはずの押切先生の存在感が限りなくゼロになっているではありませんか……。
モデルとしてもう這い上がれなくなった彼女の心が、小説の主人公に反映されているのか、それともモデル業から手を引いて、しれっと文化人枠へとシフトする戦略を実行中なのか……。押切先生からは今後も目が離せません。
■カエターノ・武野・コインブラ/80年代生まれ。福島県出身のライター。Twitter:@CaetanoTCoimbra
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