
(C)柴田英里
「ビッチは生きやすいのだろうか?」最近よく思う。messyには多くの自称ビッチや性にオープンなコラムがあるし、実際に「ビッチ」と自称する人と話すのは基本的にとても楽しい。
彼彼女ら(当たり前だけど、自称ビッチは肉体・精神ともに女性だけとは限らない)の多くは、保守的な異性愛規範からではなく、自分の欲望から世界を観測したり行動したりしているので、物事の捉え方が斬新かつユニークであるからだ。
だけど、「自称ビッチ」をアイデンティティとする人の中にはときどき、「本当にビッチか?」というくらい保守的な異性愛規範にがんじがらめになっている人がいるように思う。
私が、「保守的な異性愛規範にがんじがらめになっている自称ビッチというかnotビッチ」だと思うタイプは、大きく分けて2つある。
(1)一種の自虐を盾にした他者への攻撃がもたらす万能感に酔いしれて差別感情を巻き散らかす人。
(2)性交渉することによって、相手の富や権力、名声などの経歴・肩書きをダウンロード出来ると思っているかのような、「虎の威を借る狐」ならぬ、「sex相手の威を借るビッチ」な人。
(1)に関しては、「ビッチは迫害されてきた」という歴史的事実(そして残念ながら現在進行形)を盾に、やりたい放題に暴言を吐き散らかしプロレスを繰り広げているように見える。プロレスのマイクパフォーマンス的な技を使うのならば、プロレスをする意図や意味が重要になるはずであるのに、そのコンセプトが見えなかったり短絡な自慰的であったりすることは、多様性とは真逆の、「ビッチフォビア」「裏返しになった強制異性愛信仰」に他ならないし、そうではない場合も、「保守的な異性愛規範」を強化する要素がいささか強すぎる。
(2)に関しては、「自称ビッチ」だけの問題ではなく、いわゆるフロイトの「ペニス羨望」(※)や「去勢コンプレックス(女性版)」を、最大限マチズモ(男性優位主義)な形で発揮したものである。同時に、「他者の輝き」を簡単に奪うような、「エナジードレイン」ならぬ「グリッタードレイン」とも言うべき方法で自己の輪郭を獲得することや承認を得ようとすることの「自傷性」にこそ目を向けて欲しい。
(※フロイト精神分析概念の一つ。男性のペニスに対して女性が無意識的・意識的に抱く欲望をいう。フロイトの幼児性欲論に従えば、男根期3、4歳から6、7歳の前半において、女児は、自己の身体にペニスがないことを発見し、やがてこれを承認するようになって、男の子になりたい、すなわち男の子のようにペニスを所有したいとうらやむようになる。これはあたかもエディプス期に一致しているので、ペニスを与えてくれなかった母を軽視し、父のペニスを所有したいという願望空想となること。「突出した性器をもたない女性をおとしめるもの」としてフロイトの理論の中で、女性たちに最も多く批判された)
1 2