さて、フェミニズムアートの文脈では、「ジュディ・シカゴが1970年代にすでにやっている、以上」と冷遇されることもあるろくでなし子さんの作品ですが、私は、彼女の作品において一番注目されるべきことであり、ジュディ・シカゴとは決定的に違う部分は、以前も記事で書きましたが、その圧倒的な「バカバカしさ」であると思います。
1970年代のフェミニズムアートは、「怒り」や「痛み」の表象が多かったという特徴があります。確かに、女性に参政権がなかった時代、財産の相続が認められていなかった時代に現在よりも近い1970年代では、「怒り」や「痛み」を表現する必然がありました。
一方、現在の日本では、雇用や労働形態をはじめとして、男女の格差はまだまだありますが、義務教育では「男女平等」と習い、女性が4年生大学に進学するのも当たり前になってきています。そうした状況の中では、「女性は差別されている」という問題提起自体に、「私は差別なんてされていない」「勝手に私を不幸な人扱いしないで欲しい」と憤る女性もいるかもしれません。
現実に差別があるとしても、1970年代と現在では状況も違いますし、「石を投げられる痛み」と「真綿で圧迫される痛み」が違うように、感覚にも違いがあるのは当然です。
「私は一度も差別なんかされていない」という意識の人に、「女性が差別されてきた歴史」をいきなり語ることは、フェミニズムやジェンダースタディーズの「食わず嫌い」を生む一つの原因になるかもしれません。
そうした意味でもろくでなし子さんの作品が持つバカバカしさは、ジェンダースタディーズを考える入り口として、狭くない間口を持っているように思われ、だからこそ私は意義を認めています。
ろくでなし子さんの表現の、「バカバカしさ」に対して、「これだからフェミはバカ」という意見もあるかもしれませんが、「1人の好みではない人間がいるから、その学問自体を嫌う」というのはむちゃくちゃです。それは、「○○という力士が嫌いだから、相撲という文化はなくなるべき」というくらい、関係ない話です。さらに、「人を嫌うこと」と「嫌いな人が不当に扱われることに加担する」ことも違います。
また、「人間以下」の扱いであった女性が「人間」の権利を獲得することからスタートしたフェミニズムは、女性であるというだけでヒステリーや精神病や家畜扱いされるという状況から女性たちを救いましたが、そうした背景があるゆえにか、人間が当たり前に持っている「狂人になる権利」については不寛容というか、不感症になりがちです。
そうした背景からもろくでなし子さんの表現の「バカバカしさ」には意義があります。
誰もがみな「空気を読む」ことを求められ、「いい人でいなきゃ症候群」みたいなものが蔓延する現在において、まったく空気を読まず、2度の逮捕勾留と起訴までされてしまったろくでなし子さん。
彼女の作品が好きか否か、彼女に同情するしないは個人の自由ですが、「空気を読まない奴」が不当な扱いをされることが当たり前になってしまう世の中は、想像するだけで怖いですし、それはファシズムに他なりません。
そうした世の中にならないためにも、フェミニズムスタディーズ的な領域からも、「狂人になる権利」「空気を読まずに勝手に生きる権利」について、もっと考えられるべきであると思いますし、改めて、『ろくでなし子逮捕事件』が孕む問題の多さを実感します。
■ 柴田英里(しばた・えり)/ 現代美術作家、文筆家。彫刻史において蔑ろにされてきた装飾性と、彫刻身体の攪乱と拡張をメインテーマに活動しています。Book Newsサイトにて『ケンタッキー・フランケンシュタイン博士の戦闘美少女研究室』を不定期で連載中。好きな肉は牛と馬、好きなエナジードリンクはオロナミンCとレッドブルです。Twitterアカウント@erishibata
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